

先日、画家の知り合いの方とメッセージのやり取りをしているとき、大変だけど絵を描くのが好きだから画業を続けている、という話になった。
この彼の話した内容についてみなさんは特に疑問を抱かないだろう。
けれど、私は違った。
「絵を描くのが好き」というところで引っかかったのだ。
そう、なぜなら
私は絵を描くのが別に好きではないからだ。
え?そんなの画家としてどうなの?と思われただろうか。
話していた方にもそう伝えるとかなりびっくりされた。
失礼かもしれないが、アーティストはどこか変わった人ばかりだと思っているし、私もその一人だと感じているが、同業者に驚かれるということは、私は相当変わり者なのかもしれない。
生きるために描く

私は絵で食べているわけではない。デザイナーや受注絵画などもやっていない。だから職業として画家ではない。
かといって、仕事の余暇を楽しんだり充実させたりするもの、いわゆる趣味としてやっているわけでもない。
では、好きでもない絵をなぜ描いているのか。
端的にいえば、
描くことは私にとって
「酸素のようなもの」
だからだ。
なければ窒息してしまうような、大切な空気なのだ。
多分、今わたしが描くことを禁じられたら生きていけるかわからない。それほど、私が生きていくうえでは重要なものだ。
不思議なことに、描かないと、自分が、自分で居られなくなってしまうような、この身がバラバラになってしまいそうな恐怖と不安が押し寄せるのだ。
自分でも、描かなくてもよいなら描きたくなんてないのに、と思う。なぜ、このように産まれてきてしまったのか、とも。
けれども自分ではこの己の性質を呪うよりも、受け入れてあげたいと思う。
だから、今の私に描かないという選択肢はない。描かなければ正常に生きられない、厄介な人間だが仕方がない。
誇張でもなんでもなく、私は
「生きるため」
に絵を描いている。
絵は、好きだからという無邪気で純粋な心からやるのものでも、食べていくための手段でもない。
ただ、私の心命を賭して取り組まなければならない、大きな課題なのである。
好きではない。けれど、、
では、なにがそこまで私を絵に駆り立てるのか?
その原因は
世界の美しさ
にある。
皆さんは、この世界を美しいと思うだろうか?
わたしは、描くことよりも、美しいものをみること、素晴らしい文化や芸術をつくった人々に想いを馳せること、愛する。
私が描くのは、それらへの愛ゆえである。どうしようもなく、それはひとつの神からの啓示のようにこのみに降り注ぐ。どこからかやってくる。
私が描きたいと思っているのではない。いつだって絵が向こうからこちらにやってくるのだ。
一瞬の邂逅ーー遠い過去からか、はたまた未来かだれか、それか、わからないが自分の心身が震え、沸き立ち、どうしようもなく興奮する。涙を流す。このような体験、事実をわたしは自分のなかでは処理できない。こんな感覚をこの身に宿したまま、うちにひめることなんてできないのだ。
わたしは、馬鹿だから、一心不乱にこの美しい世界に平伏し慄き、「それ」を表現することしかできない。そうでないと、そのあまりの対象の美しさの深さと重さでこの身がバラバラになってしまう。それしか、この身を正常に保つ手段がない。
私は常々思う。
この現実の世界には途方もない故人や生命の蓄積と叡智やエネルギーのうえに成りたっている。。それは神秘のヴェールに包まれ、いつもは隠されているが、突然その姿をあらわにし、こちらを感嘆させる。
なぜ、自然の雲や木々の形はあんなに美しいのか、不思議で仕方ない。なぜ、神社に足を踏み入れるとまわりの音がやみ、しんとするのか。不思議で仕方がない。なぜ、故人の墓を前にすると畏敬の念が湧いてくるのか。不思議で仕方がない。
この世界は、本当に不思議で満ちている。
決して自分のなかの幻想ではない。よく、世界は悲惨だという話や、この世界に文句を発するような鬱々としたニュースが流れているが、私はまったくそうは思わない。
目をこらせば、くもりなきまなこで夢中で、自分の足で大地を踏み締め、土地の空気を感じ、息をすれば、そこには美しいものが、時節ふっと見える。
だから、私は描く。絵を描くことは好きじゃないし、辛い苦しい、全然だめだ、とも思う。
けれど、辛いのも苦しいのも不思議と嫌じゃない。描くことは好きじゃないけど、嫌いではない。