抽象画とはなにか?
皆さんはCasieという会社をご存知だろうか?借りるアート展というものを静岡で開催して話題になった日本初の、月額制で画家の原画を借りることができるサブスクリプションサービスである。
ユーザは、登録されている何千もの絵画のなかから自分の好みにあった絵画を選び、家まで郵送してもらう。何回でも気分にあわせて自由に絵の交換もできるし、気に入れば買い取ることもできる。
そして、その中で、なんでも「抽象画」は人気らしい。
実はこの度、わたしの絵も初めて登録し、レンタルが可能になったのだが、そこに「抽象画」のタグがつけられていた。
この作品である。
何を想像しただろうか?
何が見えただろうかーー。
そして、これは果たして「抽象画」なのだろうか?
抽象画の定義
抽象画と聞いて、皆さんはどんなものをイメージするだろうか?とはなんだろうか?
ホテルの客室などに飾られているこのような絵だろうか?
なにが描いてあるかよくわからないけれど、普通の写真みたいな風景画よりなんだかお洒落。
そんなイメージだろうか?
実は、この、なにが描いてあるかわからない。実際にはないイメージを自分でつくりだして描いたもの。
これは狭い意味での抽象画である。
では、広義の抽象画とはなにか。
抽象画とは、読んで字のごとく、「抽象的なものを絵画にしたもの」のはずである。
そして、
抽象の意味とは、実際にあるもの、つまり「具象」のなかから共通、共感部分を抜き出し、表出することである。
たとえば、ケンという獰猛な犬がいたするならば、「獰猛な」のいう部分が抽象だ。
獰猛な犬という共通のくくりの中にケンという具体的な犬(事物)がいる。
ここでひとつ重要なことがある。
それは
抽象の出発は、具象である
ということである。
ケンといえ犬がいなければ、獰猛さを感じることはない。風景の抽象は実際の風景をみるところからはじまる。
けれど、美術の世界ではどうやらこのことが捻じ曲げられていて、狭義ではまったくとんちんかんなことになっている。
実際には存在しないものを描いたものだということ。
抽象は、本来、先ほどもお伝えした通り、具体的なものからはじまる。
さらにそこから派生して概念や感情、時間や重力など目に見えないものにまで及ぶ。
けれど、それらも全ては実際に「ある」ものである。。
抽象画は、空想や幻想ではないのだ。
だから、無意味にそれっぽく色やかたちを並べたものは抽象画ではないのだ。
絵画における具象と抽象の関係性
先程、具象と抽象の関係について触れた。
具象なくして抽象はありえない。そして、抽象表現とは、常に具象との間を行ったり来たりするとなり合わせはものである。
(絵画の世界で具象から抽象的な形を見つける技法の について掘り下げた話はまた別の記事で書こうと思う。)
ひとつには、具象的なイメージに個人のイメージや絵画への考えを加えて作品化したものである。
この「泣く女」は、ピカソの愛人ドラ・マールが描かれたものだ。
彼の言葉である。
「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。
https://www.artpedia.asia/picaso-the-weeping-woman/より
デタラメな絵に見えて実はピカソの絵は具象を大切にしているのだ。人物をみて直覚した感情や事実を的確に表現するためのデフォルメ(変形であり、選ばれた色)だ。それが結果として抽象画のように見えている。
感情や手の向くままになんとなく描かれたらくがきではな断じてない。むしろ、冷静に綿密にドラを表現する最も適する形と色によっね構成された作品である。
あるいは、時間や重力など目に見えない概念にカタチや色を与え視覚化したものと考える。
例えば、ダリの「記憶の固執」は、時空の歪みや人間の記憶の奥底に眠る潜在意識を表出した作品だ。
ピカソも、ダリも、作品をみれば、描かれているもの、あらわしているものには具象も含まれる。けれど、抽象的な概念も同時にあらわれているがわかる。
どちらにせよ、狭義である実際にないものを描いたものということには異を唱える。
抽象は、間違いなくある、もしくは生まれたものから発するものだろう。
そう、わたしの抽象画とされる絵も、実際のある風景、つまり具象から始まっているのだ。
私が描いたのは、まさに海に夕陽が沈もうもしている、水平線を、山々から遠望した風景である。
これは、私が3年前、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを渡り、裏山のハイキングコースを歩いている夕暮れ時に、サンフランシスコ湾を眺めた時のことをそのまま絵にした物である。
実際に目の当たりした光景ーー。
タイトルは、「Nostalgia(郷愁)」である。
実際あるものとは写真に撮ったそのものであるのか?わたしはそうは思わない。私のみたものだって間違いなくあったのだ。それは、空想でも幻覚でもない。
実際、この風景を前にして、不思議と郷愁の風景だと感じた。みたのだ。それを具現化した風景。ある意味、それはわたしのイメージでもあり、実際の風景でもある。
つまり、この絵のなかには、サンフランシスコの海や山という実際の風景である具象も、ノスタルジー(郷愁)という概念や感情である抽象も、どちらも有する世界だ。
具象も、抽象も全てが混ざり合うのがアートの世界
皆さん、何となくお分かりになったかもしれないが、絵画の世界の領域、区分けはひどく曖昧なのである。
アートは、唯一、科学的、客観的な理論に基づかない。巷に溢れる美術評論も、主観によるところが大きく、曖昧であり、音楽に曲の音階、曲をつくる理論があるように絵画の世界には絵を描くための理論など存在しない。
美術用語も、理論も全ては便宜上存在するだけ。
結局は個々人の判断に委ねられる。
けれど私の絵が抽象というならそれでも良いと思う。同時に、具象でもあるというだけの話だ。
タグがつくなら、具象も、抽象も、風景も、見た人が感じた全てのタグがついても良いのに。そんなことを考えたりもするのだ。
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じっくり作品と向き合いながら、ぜひ今日お話したことを深く感じ、考えてみてはいかがだろうか?