わたしは美しい絵を描くために作品をつくっているわけではない。
あくまで、描くことは手段であり、目的は別のところに、自分の中に深く眠る信条にそって生きるために、描いている。
本日はその信条の核に迫るお話をしようと思う。
私の描く絵は万人受けではない
わたしの絵をみたある人に、
あんまり絵にしないようなものを絵にしている。
そんな趣旨のことを言われた覚えがある。
わたしは風景画家だが、たしかに、絵的に映えるというか、まぁぱっと見てきれいな写真のような風景を描かない。
絵的に映えるとはどういうものかというと、
例えば絵になる構図の風景。
上の絵は近景(右下の船)、中景(左の小島)、遠景(岸の向こうの雑木林)で構成され、遠近感がしっかり演出された構図だ。
補色のあざやかな色合いで目を引く風景、
※補色とは簡単にいえば反対色のようなもので黄色の補色は青紫である。補色の組み合わせの画面は互いの色を引き立たせ見る人に強い印象を与える。
光が劇的で絵的に華がある風景。
これは左下の暗い部分と右上の光の部分のあいだの明るさ、暗さの違いがはっきり分かれていてこれも見る人に強い印象を与える。
対して、わたしの風景画をみてほしい。
ぱっと見て、これはなに?と思うのではないだろうか。
なぜよりによってこれを描いたの?
色も全体的に暗くて、ぱっとめをひく色彩ではない、構図も、描かれた場所も、ぱっとしない。そう感じないだろうか。
一目見て腑におちない。つまらない。わかりにくい。そう思うかもしれない。
皆さんの1分が欲しい
しかし、そこに私の狙いがある。
みなさんが時間をかけてこの絵のなかに入り込む余地を与えること。
一目みて、魅力的、そういう絵ももちろん素晴らしい。
しかし、世の中には、ぱっと見るだけではわからないもの、根気強く眺めないと見えてこないものがたくさんあると思う。
そして、そのなかにもきっと大切なものが潜んでいる気がする。
それをあらわすのがわたしの仕事だ。
わたしの絵は、きっと劇的に人々をおおっと感動させる、驚かせる力があるようなものではないだろう。
ただ、ずっと眺めていると次第に心に染み渡っていくような、噛めば噛むほど味が出るような、
皆さんの心の中に少しずつ時間をかけてしみわたっていく、そんな作品を描いていると自負している。
だから、どうか、
1分。
1分はこの絵とじっくり向き合ってほしい。
すると、次第に風景のなかに入り込んでいける錯覚を覚えるはずだ。
そしてこの絵に隠されたさまざまな表情に気づくはずだ。
たとえば左端にはほんのすこしだけ明るい光が描かれ、柱の隙間から右のほうにさしこんでいるのだ。
そう、その焦点のあわないようなうすぼんやりとしたあかりは、夜の教会だからだ。
暗がりに仄かににともる厳かなで滋味深い光。劇的ではない光の魅力__。
そんなものに気づいていただけただろうか。
あるいはさらに想像の奥の奥へ踏み込んでいただき、なにかを感じていただけたら幸いだ。
無我の境地
今お話したように、わたしは、ただ風景の表面の美を追って描いているのではない。
風景の奥に潜む世界の神秘、あるいは風景との出逢った瞬間の「体験そのもの」を描いている。
わたしは、風景を描きながら、あのときの風景を追体験しているのだと思う。
風景は絵のためのモチーフではなく、風景のなかに没入していくために絵という手段があるだけだ。
風景がわたしの前にあるのではなく、風景のなかに私がいる___。
なにを言ってる?と思われるかもしれないが、
そこには、「無我の境地」※に近いものがあると思っている。
※仏教において自我へのとらわれから解放され、悩みや悪心など生じるはずもない悟りの状態を意味する。
とにかくそのときは
自分という存在を置き去りにした感覚。
じぶんのからだが細かい粒子になって風景のなかに溶け込んでいく感覚がある。
このとき、わたしは風景と、光と、空気と、言葉にならないすべて、宇宙といってもいいかもしれない、そういうのもの一体になる感覚になる。冗談ではなく、実際にこういうことがあるのだ。
そのときにわたしは筆をとるのだ。
この体験こそが、わたしが生きた瞬間であるとおもう。宇宙と一体となる感覚は、わたしにとって、このうえない生命の充足である。
それが、自分が生きている実感。それ以外は死んでいるも同然。
だから、わたしにとって生きるとは、そういう風景と出逢うことであり、その風景との体験を描くこと。
ただ、わたしは、以前からこのような感覚は普通ではないということを薄々感じていた。
そして、この感覚の正体を客観的に分析するために、性格特性検査を受けたことがある。
内と外、他者と自分の境界が曖昧である
と診断された。
これは、他者や外のエネルギーを必要以上に自分のなかに取り込んでしまうということだ。
このとき、わたしは今までの自分の感覚の原因に納得したと同時に、自分は通常の人とは違い、生きにくい人間なのかもしれない、と感じた。
自分が嫌になったりもした。
しかし、今思えば、だからこそ、風景のなかに自らの身を離散させ、没入する風景を描くことができたのだ。
どうやらこのわたしのアイデンティティが、境界を越えた風景を描く原動力になっていると、今はそう思える。
境界を越えていくために
このように、私は風景との境界を超えていく。
そして、いつか、あなたという境界も越えていけたらとてもうれしいのだ。
そして、この超個人的な感覚、なにかと一体になる感覚を、私の風景を通して一人でも味わってくれる人があれば、こんなに幸せなことはない。
一瞬でも、わたしの絵をみたひとが、わたしの感覚と、目のまえの風景と共鳴し、心の琴線に触れ、そして風景のなかに没入していく__。
あらゆる隔たりを越え、風景と自己がひとつになり溶けていく__。
そこにどんな意味があるのか?問われれば、言葉につまる。
しかし、しいていうなら、からだじゅうが満たされ、自分の存在の神秘・すばらしさに気づける。
そして、一度それを味わったら、普段の生活が、いかに漫然と生きているかに気づかされるのだ。
そして、そこからは、どんなことをしていても、あの時の感覚を求める。それが、それだけが本当に価値あることだと、体験したものだけはそれを確信することができる。
だから、ここでわたしがいくら講釈をたれてもなにもはじまらない。
皆さんには、ぜひ私の描く風景に直接会いにきていただきたいのだ。
だって、絵を前にしただけであらゆる時間も空間も越えて、その風景と一体になるなんて、想像できるだろうか。
でも、わたしは実際にそれを「目に見える形」にして世に送り出しているつもりだ。
わたしの描く風景が、いつかあなたの心に宿り、癒し、生きる充足をもたらしますように。そう祈り、わたしは描き続ける—-。
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