写真のような絵=「リアルな絵」ではない!その理由

リアルな絵とはなにか

みなさんがまるで本物のような、ということを感じる絵はどのようなものだろうか?

まずはこれを見てほしい。

これは、リアルなりんごのように見えるだろうか?

この絵のリンゴのように、細部まで描き込まれたーー本物そっくりの色つや、果点(皮の表面の細かい点々)や根本のしわ一本一本描かれたものがリアルな林檎なのだろうか。

私は、違うと思う。この絵は、リアルではない。

わたしは、このようにリンゴを描くことはできる。(因みにこれは学生時代課題で描いたものだ

が、しかし今後このようにリンゴを描きたいとは思わない。

私の考える本物のリアルな絵画とは、

視覚情報以外の目に見えない事実が「ヴィジョン」となってあらわれたものである。

頭に?が飛び交った方も多いかもしれないので、順を追って説明しよう。

まず、「ヴィジョン」とは、目に見えている色や形、質感といったいわゆる「視覚情報」である。

絵画とは、この「ヴィジョン」によるものであり、絵画それ自体はにおいては、味も音もなく、視覚的物体でしかない。

しかし、リアルな絵画というものは、この視覚情報から、それ以外のさまざまなリアルな情報や事実を伝え、思考や想像を促す「ヴィジョン」なのだ。

では、それ以外の事実とはなんだろうか?

絵画の歴史のなかで、その問題に向き合ったのが、モネやセザンヌ、ピカソである。

モネは光のリアルを、

https://artoftheworld.jp/musee-d-orsay/979/

セザンヌは目の前の物質の存在のリアルを、

赤いチョッキの少年
https://www.musey.net/869/870

ピカソは人間の赤裸々な感情のリアルを、

それぞれ描いたのだ。

彼らの絵には、「絵画」という形式は視覚的要素に支配されたものであるにもかかわらず、その視覚の枠を飛び越えて、この世のさまざまな事実、事象をわたしたちに伝える力がある。

「写真のような絵」に欠けているもの

対して、皆さんがよく知る、まるで写真のような絵、一般的に写実画と呼ばれる絵画は、リアルというには不十分なのだ。なぜなら、それはまさしく視覚情報のみのリアルに特化しているためだ。

例えば、この写真を見てほしい。

これは、京都にある本阿弥光悦の墓所を撮影したものである。光に照らされ、細密な変化を見せる木々や葉の形や色、規則正しく並べられた卒塔婆、、。

果たして、みなさんは、ここから何かを想像するだろうか?

写真の画像というのは、ピントを通して切り取られた、あるいは捉えられた色、形、空間である。実は、この1つの視点からみることによって生み出された絵画における「遠近法」と呼ばれるものも、ひとつの見方に過ぎない。

つまり、写真も視覚情報の正確な記録において、またひとつの「リアル」ではあることに間違いはないのだが、「リアルのすべて」ではないのだ。

そして、「写真のような絵」も、この事実に準拠していて、視覚的なリアルの追求で留まっている。

さわり心地や、聴こえた音や、人の感情や、文化の重みや歴史、思考、精神、目の前にあるあらゆる要素を表現することこそ、リアルのすべてである。

だから、私は絵画において、あえて、描かない。描きすぎない。色も形も、、写真のようにはしない。なぜなら、視覚情報以外の大切なリアルを、そう、光悦墓所であるなら、差し込む暖かな陽光、ゆらぐ葉の風情、ひっそりとした寂雅な中の、簡素な造りにも関わらず不思議な存在感を漂わせる墓石の風格。そういったものを表したいからだ。

写実絵画こそ、視覚に頼りすぎている、あるいはひとつの視点からしか見れていないからだ。

写真は事実を記録するものであって、感覚を保障するものではない。ゆらぐ色や形、全体、におい、空気のいろ、すべて、、。これらをすべてかんじ、表現できるのが私たちの目である、絵画なのだ。

なぜ、写真がリアルだと思うのだろうか。確かに、目の前の事物の形や色を正確に記録はしている。けれど、それはピントや遠近法に支配されている。ひとつのピントによるレンズより人間の目や五感は多くのことを吸収しているはずなのだ。

それでも人々が写実画をリアルと思う理由

写実絵画は、写真の出現によって意味を成さなくなったはずだ。それなのになぜ写真のように描くのだろう?細密に、精密に、正確な構造とカタチ。細かい色彩。

そのような「写実的な絵」は巷に溢れているが、それらをみる度に、私は、

この作者は何のために絵を描いてるのだろう?と思う。

絵をうまく描けることが嬉しいのか、描くことが好きなのか、己の技術の素晴らしさを誇示したいだけではないのか?と色々勘繰ってしまう。

勿論、絵を描く動機はそれぞれだし、それらの絵を否定するわけでもない。むしろ、、中途半端は写実画はさておき、例えばホキ美術館のスーパーリアリズムの絵画群は写真よりも美しい視覚的芸術には誠に感嘆する。

ただ、私が少し残念に思うのは、ピカソの真のリアルが世に浸透せず、表層のみをあらわした写実画がリアルな絵ととして浸透していることだ。

けれど、多くの人々がそこに行きついてしまう理由もわかるのだ。

なぜなら、

わかりやすいからだ。

なにも考えなくても、想像しなくてもよい。その絵をみて、ただ綺麗、素敵で終わるのが楽だからだ。

想像の余地も、思考も、疑問もない。なぜそれがそう描かれているのか、考えるのが面倒くさいのだ。だから、ぱっとみてわかりやすい絵をみんな好むのだ。

けれどね、本当のリアルな絵というのは、じっと向き合っているうちに、じんわりと色んなことを想像させ、感じさせ、自分の血肉や精神の奥底に沈澱し、からだの一部となって流れていくものなのだ。

そういうものが、例え、地味でも、ぱっとしなくても、一見、ただの落書きのようでも本当に、そういうもののなかにリアルで後世に残る絵だってあるのだ。もちろん、本当にただ適当に描かれたものもある。

だから、この文章を読んでいる皆さんに、少しでも本物のリアルを想像し、感じて頂けたら、と切に願うのだ。

本物のリアルは写実画の先にある

わたしは、絵には思想や精神の痕跡が見られると思っていて、そういうものがないと、やっぱり本物とはいえないと思う。もちろん、思想や精神だけあっても仕方ない。それをどれだけヴィジョン、つまり絵として表現できているか。これができていなければそれもまた未熟。

だから、精神、思想、ヴィジョンすべてが合わさったものが、「リアル」である。どれかひとつでも欠けても、本物のリアルには到達できない。

そして、私は今日も目の前のまだ到底そのリアルには到達していない不自然な絵と向き合い、もがいている。

筆をおきながら、自問自答を繰り返すのだ。

目をつぶり、感覚を研ぎ澄ませ、思考を整理し、また筆をとるのだ。本物のヴィジョンに向かって、、。

コメント一覧
  1. まりィも より:

    ぼんやりと思っていたことが全てここに書かれていました(笑)。とてもいい文章ですね。森本哲郎を思い出しました。

    私はイリヤ・レーピンの人物画を見るとこの人達絵の中で生きてるみたいだな、と引き込まれます。目が生きてて表情からその人達の性格が伝わってくる気がするのです。実際にその人のことを知らないと描けない絵だなあと思っていたのですが、やはり肖像画を描く時は念入りに相手の人となりを理解してから絵にする画家だったそうです。

    もうひとつは江戸東京博物館で馬がたくさん描かれている日本画を見たのですが、一頭一頭の表情が違いこの馬は若い男性2人が将来について意気込んで話し合ってるみたいだ、その後ろの馬はその2人を見て若かりし頃の自分を思い出しながら見守っているおじいさんだ、などとても細かい設定が伝わってくるんです。全部の馬がそんな感じだったので何時間も見ていました。

    そういう絵の中にある心がわかった時はとても感動します。芸術って本来そういうものですよね。いい記事を読ませてくれてありがとうございます。

  2. おむぅ より:

    すいません、僕も絵を描いている人間ですが素人なので聞きかじったことを書きます。
    19世紀は写真がなかったので人物を記録として残すのに写真のように描く技術がもてはやされたと聞いています。
    ですから写真がある現代においては写真のように描いた絵というのはほとんど意味がないと思います。
    それと岸田劉生は写実画というのは写実であって写実でないところに美があると言っていますね。
    実際に劉生自身の作品である麗子像は顔はデフォルメして描かれていますが麗子が身に纏っている毛糸のショールのようなものはかなりリアルに描かれていますね。
    つまり顔をデフォルメして描くことによって麗子像には不気味さが漂っていて、これぞまさしくkururiさんがおっしゃる視覚情報以外のリアルであり、そこが麗子像の魅力だと思うので人によっては麗子像は怖いという人もいますね。
    ですから麗子像こそ真の写実画だと思います。

コメントを残す

アートの旅の関連記事
おすすめの記事