前回の記事で、言葉にできないものの美しさについて語った。
私は、しばしば、絵に添えて、詩や歌を詠むこともある。それは、絵単体、ことば単体より、絵とことばで、より、その世界に深い響きをあたえる場合があるからだ。
例えば、この作品を見ていただきたい。
つぎに、絵と文を交互にみて頂きたい。
—-雨響—-
——あめつちの境目を繋ぐ雨は、地面でこそそのまま何の反響もなく吸い込まれてゆくが、
渓流に降り注ぐ雨は、みなもの上で小さく跳ねていた。
しかし、その跳ねによって、波紋が生まれることはなく、
至って水面は静かで、低木の合間を縫ってから流れ落ちるいくつかの雨滴が、絹糸が切れて落ちるような繊細な形態で、ただ、落ちて、跳ねている。
それは不思議な光景だった。
いつもは地面と空の間を行き来する雨の白がー。
空の白や風景の白に同化してしまう雨の色が、形が、
その緑々とした森と水面を背景に、ありありとそこに存在していたー。
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いかがだろうか?
絵だけのほうが、良いと思う方もいるだろうが、詩とともに味わうことで、より染み込むものもある。
そう思った方もいるのではないだろうか。
一方、作品によっては言葉が無粋と感じることもある。
例えばこの作品である。
《浮かぶ青木》
今お見せした2つの作品は、どちらも、今夏の青森の旅での風景をモチーフにしているが、
言葉がぴたっと出てくる場合もあれば、
言葉はなく、絵として浮かび上がってくる場合もある。
だから、私は言葉を使うことに懐疑的な部分もあるが、同時に、
研ぎ澄まされた詩や歌、魂に直接語りかける言葉に関しては信頼をおいているのだ。
それらは言葉の先にある情景、あるいは言葉になる前の一瞬の情緒を感じさせるからだ。
このような言葉とのかかわりのなかで、
私は、以前から用いてた、
「日本画家」と名乗るのを辞めた。
ジャンルや技法に囚われたくないという想いが強くなってきたからである。
私は、以前、日本画の段階を踏んでゆく行為の美しさに、禅修行のような感覚を覚え、そのことを良く思っていたが、
そこに違和感を覚えてしまった。
決まった順序、決まった道筋、絵画の見方ー。
それらが本質ではないこと、それよりももっと大切なことがあるとー。
なぜだろう。
それは、やはり、言葉にならないものの美しさに触れる機会を多くもったからだろう。
奈良の旅、長野の旅、神々や自然の存在を強く意識するなかで、その一瞬の邂逅と、想いの深さが絵画の深みのもっとも重要な部分であると気づかされた。
私は、日本画を描きたいのか?下絵を描き、線画を描き、彩色をし、絵を完成させるのが目的か?
ちがう。
絵を描くことは、あくまで手段である。
私は、ただ、
風景のなかに、ただ、溶けていたいのだー。
そう、新しい名は、
風景に溶ける画家ー。
コトバにならない、時間も、空間も超えた風景の、貴いということをー。
それをありありと高らかに謳いあげたいだけなのだ。
そういった意味で、
「風景に溶ける画家」は、私自身をあらわす言葉そのものだ。
ただ、本音をいえば、画家という言葉もなくしたいところである。
風景に溶ける「画家」というのも、まだ格好をつけている感覚があるからだ。
けれど、それは、また後々のことになるだろう。
まだ時期ではないー。
名すら、必要ないと感じる境地に至るかもしれないが、それはまだ先の話だろうー。
そう、
私にとって、絵描きの道とは、
自身に付き纏っている足枷、手枷を一つずつなくしてゆく自由への道である。
その先にあるのは、もっとも純粋で透徹された風景の境地である。
今回、またひとつ、日本画家という足枷を脱ぎ捨てることに成功した。
言葉の先にある、ジャンルの先にある、誰もみたことのない風景ー。
それは、貴方の魂に直接語りかける、まだ誰も見たことのない風景なのだー。