私が冬に死にたいと思う理由

冬の旅

先日、東京に久しぶりに粉雪が積もった。

美しい雪景色に心奪われるのを感じながら、私は冬の旅を思った。

そう、京都、青森、

私は幾度も夏に訪れたが、その度に、この山々が雪に覆われ、その木々の枝が黒と白のコントラストに映えるさまを想像し、焦がれていたのを思い出したからだ。

夏に比べて体力的にも自然条件としても厳しく、

極寒の雪のなか、森や山や海を歩くという旅を、私は未だほとんど体験できていない。

けれど、先日の雪をみて、やはり冬の風景の旅に出たいと感じた。

いつかどこかの画集で見た、東山魁夷氏が、深い雪の中を、スケッチブック片手に1人歩く姿が思い出されるー。

ところで、私は、これまでいくつか冬の風景を描いている。

       《郷愁 》2021

凍夜 2020

    《落日》ドローイング 2021

実は、これらの絵は全て、この目でみたことのない風景だ。

しかし、不思議なことに、

心のどこかでこの風景を見たことがあるような覚えがある。

モルトウイスキーの聖地アイラ島、

幻想のなかの凍てつく森。

湖に浮かぶ古城、落日ー。

アイラ島は、そのウイスキーの味に惹かれて描いた。真冬の夜の森は、幼き日のどこかの記憶、古城、落日、湖も、何故か心の中にずっとあるモチーフだ。

そう、これらの作品は、不思議とすべてイングランドや北欧の風景にちなんでいる。

本能の向かう地

思い返せば、わたしは10代の頃から行ったこともないイングランドやアイルランドの風景を、写真集を眺めては描いていた。

一方で、家族旅行でいくのはハワイなどの南国。

音楽に関していえば、母親が流していた、アイルランド出身の歌手Enyaの曲ー。

あれを聴きながらいつも北欧の森と泉の湧き出るさまを想像していた。

彼女の《Only Timeという曲は、森と湖、緑青の風景をいつも呼び起こす。

《無題》ドローイング 2021

これは、わたしが昨年無意識に描いた風景だが、使う絵の具の色が、幼少期のこの音楽と通じているのを感じる。

アイルランド、イングランドの澄んだ緑は、私の風景のなかにずっとあったということだ。

東山魁夷氏が南を安息の地としながら、北に惹かれ、両極の性格をふたつとも有していたが、

自分にも、このような二つのまったく異なる側面が同時に存在していることを感じる。

旅に出て、直接目に灼きつけた光景しか描けない私が、なぜこれらの風景を想起するに至ったのか、自分でもわからない。

けれど、それはもしかしたら、今世ではないが、もう既に出会っていた風景なのかもしれない。

不思議なことだが、

自分の魂は最後、この風景に還っていくのだろうという漠然とした予感がある。

そういう意味で、私にとって、

冬の情景、あるいは北欧の風土に対しては、幼い頃からの記憶、あるいはもしかすると、前世からの記憶も相まって、

憧憬よりも深い情念が備わっていることがわかる。

無意識に、緑青や群青を使い、森や湖を描くこと。

スコットランドのウイスキーを愛し、アイルランドの歌を愛すること。

なぜか、雪と氷の世界をみていることー。

私のこれまでの嗜好が、点と線でつながり、冬の北欧への旅へと誘うー。

私は、京都、奈良へ好んで旅するが、それは

常に想像力をかきたてられる地であるためだ。

日本文化や歴史的な事象への知的好奇心の探求に他ならない。

そして、北欧は、まったくこれとは異なる動機によって惹かれている。

奈良・京都が、神や仏、人間の想像力による救済の地であるのならば

北欧は本能が求める孤独の地である

そこは、想像力すらも超え、私が強く向かいたいと奥底で重低音のように響いて、鳴り止まない土地である。

最も個人的な、精神の深淵に根ざしているのだ。

 

魁夷氏が凍えるなか、スケッチブックを片手にひとり雪のなかを歩く姿、井上靖氏が見た、天城にて猟銃を肩に、一筋の道をゆく、孤独な猟師の老いた背中ー。

それらが、真っ白な呼吸とともに脳裏にちらつき、視界を覆う。

焦がれるほどの銀世界への憧憬ー。

わたしは、一年前、並々ならぬ想いに駆り立てられて京都へ向かったが、やはり冬だった。

それは、魂の帰還ともいえる。

貴船山雪 (スケッチ)2020

原点ともちがう、ただ、深い深い精神の帰還は、冬の銀光のなかで鈍く光る。

そして、その瞬間は、まだ先であることもわかっている。

目下、私は冬とは真反対の、夏の青森の風景を個展に向けて制作中であるー。

けれど、そのなかでも、響き続ける風土の魂に、私はいつも呼ばれている。

そのことが、私を安心させるのだ。これまでも、これからもー。

だから、私が命を還すのはこの季節が良い。

願わくば、厳冬の、きんと冷えた雪の舞う朝にー。

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