夏が近い。
入道雲と青い海と青い空。蒸し暑い蝉の鳴き声。
あぁ、今年も夏がやってきたな、と思うわけである。
他の季節は「やってきた」なんて言わないのである。
待ち遠しいような、それでいて虚しいような、
ジリジリとした光のなかで、ある種の夢を見ているような感覚の季節。
そんな夏の風物詩である、
青い海と青い空。
人々は無条件に美しいと思うものー。
しかし、よく考えてみてほしい。
なぜ、私たちは、澄んだ青い空を、海を美しいと思うのだろうか。
その謎をひもとく上で重要な絵画がある。
現在、六本木の森美術館で開催中のアナザーエナジー展で見ることができる、ミリアム・カーン氏の作ー。
こちらの作品だ。
いかがだろうか。この作品はかなり大きく、人も描かれているが、真っ先に目に入るのは、タイトルにもある
〝美しいブルー〝
ではないだろうか。
この作品の青は非常に美しく、私は夏の真っ青な太平洋の透き通った海を想像させた。
皆さんも、この青をみて汚いとは思わないだろう。
けれど、ひっかかる部分もあるはずだ。
そう、人の描写である。
人が手を上げている?
これは、おちているのだ。海の底に向けて今まさに沈みゆく人を描写しているのだ。
そう、この絵は、実は、水爆実験の被害にあい、亡くなった人々を象徴している。
ここまで読んで、皆さんはきっと恐ろしいと感じたのではないだろうか。
それでは、この事実をふまえてもう一度作品を眺めてみよう。
哀しみとやりきれなさが押し寄せてくるのではないだろうか。
しかし、一方で、
やはり、青は美しいのではないだろうか。
どんなに悲惨さを知っていても青は変わらず美しい。
ここに矛盾を感じないだろうか。
なぜ、美しさと恐ろしさは同居するのか?
ここに、一つの解釈を提示するなら、
それは、どちらも、鮮烈だからだ。
恐ろしいものが、美しい。
この一見ちぐはぐに聞こえる言葉が、実は本当のことであるとこの絵画は証明している。
そして、なにより、私たちが証明している。
考えてみてほしい。
青い海の恐ろしさを、私たちは想像できるはずだ。
あの夏の日、万歳と飛び込んだ瞼の裏に最後に映ったのは、どこまでも綺麗なコバルトブルーの海だ。
私たちは青い空が恐ろしいことを知ってはいまいか?
B29 の影におびえ、空を仰いだ真昼の夏のことを。
万感の想いをのせ、一直線に垂直に、機体を走らせ、最後に見た青い空を。
私たちはきっと記憶している。
8月6日も、真っ青な空だった。
なんだろう、とぴかっと光ったきれいな光に包まれる間際、人々が最後に目にしたのはどこまでも澄んだ空だ。
8月15日もよく晴れた日だったという。
あの夏の、蝉が泣くなか、無機質なラジオの声を聴きながらなんとも言えない溶けていく感覚。
頭をたれ、そして最後にはやはり真っ青な空を眺めたのだ。
私たちが無条件に美しいと思う理由、。
それは、灼きついているからだー。
今を生きる私たちは、これからもなんとなく空を仰ぎ、海を眺める。
けれど、それはきっと、
泣けないほどの胸をしめつけられる記憶だからだ。
泣きたくなるほど澄んだ青。それでも泣けない青。
だからこそ、こんなにも美しいのだ。
青い海も青い空も、皆んなの記憶を背負ったほんとうの哀しさなのだー。