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森に囲まれた広大な芝生、遮るものはなにもない。
昼下がりの気温は30℃を優に越え、じりじりと容赦なく日射しが照りつける。
気候はからっとしているわけでもないが、森の木々から風がそよぎ、木陰はいくぶん涼しい。ねっとりと汗が貼りつくような不快感はない。
ここは、“縄文”___。
そう、
遥か日本のルーツ、その文化が栄えたこの大規模な集落の土を、私は踏みしめていたー。
縄文とはなにか
突然だが皆さんは、
「縄文時代」に
どういうイメージをもっているだろうか?
原始的な生活をしていた?
農耕をせず、自然の実をたべたり狩りをして文化的な発展はなかった?
実は、そうではないのだ。
あまりに昔で、しかも一万年も続いた日本で一番長く続いた時代。
それは、想像の及ばない領域ではないだろうか。
かくいう私も、縄文時代というのは謎に包まれていた。
しかし、その後、縄文時代がいかに豊かな文化を有していたか、驚愕することになるーー。
そう、かつて岡本太郎氏が土器をみて縄文に感激したように、
縄文最大の遺跡、
三内丸山遺跡にてーー。
それでは、神秘のベールに包まれた縄文への旅へ、皆さんをお連れしよう。
ー遥か日本の祖先を追憶できる場所ー
三内丸山遺跡は、非常に広大な敷地を誇り、
復元された倉庫や住居群など、遺跡の数々が一箇所に密集せず、あちらこちらに点在している。
住居群のエリアでは、茅葺き、藁葺き、樹皮葺きの三種類の竪穴住居を見ることができる。
藁葺きや樹皮ぶきの屋根は、現代では中々お目にかかれない風情である。
こじんまりとした簡素な秘密基地のような趣のそれは、長く定住できるような造りには見えなかった。
しかし、思いの外内部はしっかりと組み木が施され、蔦で頑丈に固定されている。
小さな災害であれば耐えられたのかもしれない。
また、これも実際に中に入ってみて気づくのだが、
竪穴住居の入口はとても低くて狭い。
これは昔の人がとても身長が低かったためで、腰を屈めてやっと入ると、そう云ったこともリアルに感じられた。
ゆっくり内部を見回すと、小柄な私の身長でもすぐ天井に頭がつきそうな程に、そこは狭く暗く、
まるで外界と隔絶されたように、妙にしんとしている。
燻した藁の匂い、埃っぽい土の匂い。藁の隙間から微かに射し込む光、少しひんやりとした湿っぽい空気__。
ふと、暗闇の中に、火を囲み、煮炊きをする家族の姿がぼうっと浮かんで再び消えた。
その一瞬、私はこの家で共に暮らす家族の一人のようにそこに存在してる錯覚を覚えるほどに、
その小さな茅葺の住居は不思議な生活感を讃えていた。
この不思議な現実感の正体とはーー。
実は、三内丸山遺跡の建物は、
すべて当時と同じ材料と工法によって再現されているのだ。
たとえば見張り台の太い柱は継ぎ木されていないクリの一木造りだが、
もう日本に同じ長さ太さのクリの木がないため、わざわざロシアから輸入されたものだ。
さらに、ここには
復元だけでなく、発掘時の盛り土がそのまま保存されている場所もある。
ムラが栄えた当時の堆積した土に埋まった無数の土器の破片などを一心に覗きこんでいると、
何やら身体がふわふわしてきて、自分の今いる地点が失くなるような不思議な心地がした。
何千年前の私たちの祖先の生きた証、
その途方もない遥か、遠い遠い時間__
それが今、共にある感覚を抱き締めるように、没入する。
このように、三内丸山では遺跡だけでも十分タイムトリップできるが、
さらに遺跡の隣にはミュージアムが併設されている。
このミュージアムがまた非常に興味深い。
出土品をただ並べるような無機質な展示形式ではなく、物語風の構成だ。
等身大の人形が置かれ、その登場人物の台詞で説明が書かれていたり、
展示小物や背景画も精細につくられ、見応えがある。
歴史に興味がない人にとっても縄文を身近に感じられるように、といった博物館側の熱意のあらわれである。
ミュージアムでは上記の常設展示室の他にも、実際の出土品の一般収蔵庫や遺跡の整理作業室がガラス張りで公開されている。
ナンバリングされた土器など前にすると、実際に人が関わっていることがよくわかる。
美術館や博物館で働く人々が、
どのような思いで仕事をしているのか。
その裏側を想像するには些か難しい部分がある。
だからこそ、様々な場所で、文書や写真だけでなく、このような“生身の公開”を積極的に行うことには意義がある。
ここは、“開かれた博物館” であった。
一般収蔵庫の向かいには、地下から一階まで吹き抜ける高い天井までの壁を、5000を越える土器の破片で埋めつくす展示があった。
空間をよく生かしていて、三内丸山の大規模な発掘の成果を示す、その迫力に圧倒される。※2
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三内丸山は毎年新たな出土の成果があり、いずれ教科書に記してある縄文の知識がひっくり返るような発見があるかもしれない。
まだまだ可能性を秘めた場所なのだそう。
再来年あたりには、恐らく世界遺産に認定されると、ガイドの方が熱心に語っていたが、
まさしくその通りとなりそうだ。
私たちの祖先が生きた広大な土地は、
過去の遺物ではない。
今なお、人々を惹き付けてやまない、
現在と過去、そして未来を繋ぐ交流点なのだ。
縄文は未発達の文化ではない
ミュージアムの展示品の中で最も印象的だったのは、
現在と同じ手法で作られたという、
網代編みのポシェット※3である。
奇跡的に空気に触れず綺麗に残っていることにも感心したが、その細工のなんと緻密で美しいことか。
縄文の荒々しい原始的なイメージを覆えしてくるようにその入れ物は、至極繊細な光沢を放っていた。
ローマやパリで沢山の古代ギリシアやローマの彫像を見たときの衝撃と似ていた。
ルーヴルにあった古代ギリシアの彫刻は現在の彫刻よりも精巧で、生き生きとしていて、
私は文明が進んでいるのか、分からなくなった。
彼らは現代人は到底計り知れない目と技術を持っていたのだ。
それは、三内丸山のムラの人々も同じくーー。
まず、彼らは、自然や生き物の習性を観察し、それに合わせて必要なものを生み出す力があった。
材料こそ違えど現在と全く同じ形の釣り針で作った。
魚の習性によって網漁、銛突き漁など手法を変えた。
木材を燻し、乾かし加工することで虫食いを防いだ。
縄文尺※ を基準に計測を行い、丈夫な建物を造った。
※4. 35センチを基準とした三内丸山で共通で使用されていたとされる計測単位
さらに、恵みのある食生活を営み、趣味嗜好を楽しみ、活発な文化交流を行っていた。
マグロ、カツオ、サバ、イワシ、ニシン、タイ類、ヒラメなど、季節ごとにふんだんに獲れる魚や、
それにアサリやシジミなどの貝類、
蟹やウニなどの甲類、
ウサギやカモの肉類を食べた。
木の実を加工し、米以外の穀類の栽培を行い、酒も造った。
ヘアピンやネックレスなど様々な種類の装身具を作り、お洒落を楽しんだ。
土器には紋様や変形を施し、表現活動に親しんだ。
さらには船を出し、日本列島各地との交易も盛んに行い、翡翠や黒曜石などを輸入し、活用したー。
さて、皆さん。
昨今度々耳する“豊かな生活”とはいったい何を指すと思うだろうか。
考えてみてほしい。
それぞれの考えが浮かぶことだろう。
けれど、同時に思うのだ。
この縄文人の暮らしが豊かでないなら、一体何が豊かなのだろう。
少なくとも現代の暮らしの方が昔の暮らしより豊かであると、そんな考えは幻想である。
私の目には、三内丸山のムラの生活が、自然と人の営みの喜び、創造と享受の楽しみに満ちていているように見えた。
___それはとても濃密な時間ーー。
世代を超える平和の〝ムラ〝
住居エリアをまわっていると、ふいに小学生ぐらいだろうか、
男の子がひょいっと私の前に出て、
“お邪魔します”
と断ってから住居の暗がりの中に入っていった。
遺跡や古代の建築などは、その中に土足で上がることが多い。
わたしも、いつのまにか見物気分になっていたのかもしれないを
しかし、ここは人の敷地内で、人の家なのだ。
その感覚を忘れない。
無意識の不遜な態度を、小さな少年に私に教えてもらったのだ。
改めて、住居の前に立つ。入口で、“お邪魔します”私もこの言葉を、静かに呟いた。遠いご先祖さまの生活にお邪魔させてもらう、その精一杯の気持ちを込めてーー。
実は、
この時以外でも、遺跡では、子どもに感心させられる、子どもがご先祖や遺産を重んじる態度が度々見られた。
住居の内部では、先程の男の子は中をぐるっと見回しながら
“これがご先祖様が暮らしてた家かぁ…”と、しみじみとした口調で感想を洩らした。
おそらく青森市内か、県内の小学校に通う子供だろう。
夏休みの課題などでここに来るように先生に言われてきたのかもしれない。
また、盛り土のシェルターにて。
湿度温度を一定に保つために“見学の際にドアを必ず閉めるように”と貼り紙があるのだが、
それを見て“閉めなきゃ!閉めなきゃ!”と急いでドアに駆け寄る少年。
遺跡のガイドツアーでは、母親の陰に隠れるように恥ずかしがりながらも、真剣な目でガイドの方の話を聞く少女。
このような光景は、千葉や東京の博物館、美術館ではあまり見ない。
このような子どもたちの姿を見ると、
ここまで子どもたちを導いてくれた大人がいる事、
そして昔の人や昔の人のものを大切にしようとする態度が、親やお年寄り世代だけでなく、未来を担う子供たちに育くまれている事。
その素晴らしさを想う。
この地に住んだ縄文の人々が親から子へ、子から孫へ伝えられ、この地に脈々と培われてきたものは、
なにも生きるための技術だけではない。
先祖を敬い、家族を大切にし、自然の恵みに感謝する態度、
平等に分け与え、争いをしないその精神だ。
三内を後にし、その日の夜はねぶた祭りを観に行った。
ねぶたの御輿は神話の神々や祖先を讃える内容がモチーフになっているものが多い。
やはり自分達の祖先を敬う文化がこの土地には根付いているのかもしれない。
驚くべきは、
老若男女問わず、小中学生、若い青年も娘も父も母もお年寄りから赤ん坊までが祭りの列に参加していたことだ。
(なんと、ベビーカーを母親が手押していた。)
その様子をぼんやり眺めていると、
ふと、家族三世代が皆で身を寄せあい、一つのムラで生活する縄文の人々が、その姿に重なったー。
ここは、
ひとつの輪と和の地なのだー。
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現代に生きる遺跡と自然
ねぶた祭りでは、列に観光客が参加していても誰も気にせず、
皆で楽しもうという気風がある。
祭事では、儀礼や様式を重んじ、よそ者や見物客が踏みこめない一定の領域がある場合があるが、
ここは不思議とその辺りの線引きを感じさせない。
跳人と呼ばれる祭りの当事者たちは、
自分たちだけ声をあげるのではなく、沿道の人とも一緒になって祭りを盛りあげようと、
こちらに声をかけるかのように、沢山顔を向けてくれた。
ある青年の跳人が祭りの終盤で、体力の限界なのか、膝を折り頭を垂れていた。
それを見た沿道の人が必死に頑張れと応援していた。
それに答えるように、ちらの此方に目をやり、ニヤッとすると最後の力を振り絞るように、躍りを再開する。
祭りが終わったら沿道の商店の人々は自分の店の前の椅子をさっと片付ける。
見物していた人々はゴミをしっかり持ち帰っていた。
その様子を見て気づいたのだ。
現代の青森もまた、
ひとつの“ムラ”なのだ。
皆が心地よく暮らせるムラを、皆で励まし会いながら創り上げていく___。
ここに来れば、私のような旅人も、そこに住む人々も等しく、“ムラの一員”なのかもしれない。
自然の恩恵を受けながら、結果として1500年間、ムラに住む人々がひたすらに紡いだもの。
人と人の暖かみ、優しさ、先祖の営みを大切に、大切に次の世代へ受け継いでゆかんとする心。
そして、それを育んだのは、
三内丸山の自然環境である。
豊富な資源と食糧が確保できる土地。事実、気候の変化に伴って三内のムラは終焉を迎えた。
散り散りになった縄文人は稲作文化を取り入れ、争いの世の弥生時代から先の時代へと足を踏み入れていく。
そう考えてゆくと、縄文の元々の気質が争いを嫌ったというより、
奇跡的に幾世代にも渡って長く続いたムラの営みこそが、
結果的にここに住む人々に平和的気質を浸透させたのかもしれない。
それが日本の歴史のなかでなんと尊く、異質な文化かーー。
その優しい気質は、今も青森の人々の中に、そして自然の中に、生きているー。
青森の人は、
“観光客だから”と、必要以上にこちらに愛想を振り撒くことはしない。
用がなければ基本無口だ。
宿でも、食事処でも、
無理に笑わない、無理に働かない。
ごくごく自然に、繕わずに生きる人々の様子を沢山見た。
さりげなく助けてくれるのだ。
それは、観光地特有の、少し繕ったような優しさとは違い、背伸びをしない優しさーー。
ねぶたを立って見ていると、隣の家族の方が誰もいないからと、ふわっと笑い、椅子を貸してくれた。
彼らは、“距離”はとるが、決して”線“をひかない。
だから、こんなにも、こちらの肩の力を抜くように、すっとこの身に入ってくるのだ__。
三内丸山遺跡は、過去のものではなく、今も青森の地に脈々と受け継がれている。
青森、ねぶた、そして三内丸山遺跡は点と線でつながっているーー。
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遺跡をあとにし、深く生い茂る緑の森を横目に、広い道をゆっくり歩く。
遺跡は、優しい緑の森に囲まれ、こちらに手を広げて微笑んでいるように。さらさらと流れる小川のように静かに今日も私たちを受け入れる。
その心地よい静けさの中を泳ぐように、
そっと目を閉じよう_。
そこには悠久の風が吹いているー。
三内丸山遺跡公式HP
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp