十和田の自然が私に教えくれた大切なこと

ルーティン制作は何も産まない

わたしは、絵描きとして活動を始める前も、あとも、土地の風景を描きにいくスケッチ旅行を基本としてきた。

その土地を踏みしめ、空気を吸い、文化や歴史の風を感じ、出逢った風景を絵にしてきた。

それは、いつしか、

自分のなかでひとつの仕事のルーティンのようになっていた。

とにかく、旅に出て描きたい風景を探しにゆくという仕事である。

そして、この夏ー。

今回も風景との出逢いを求めて旅立ったのだが、

それは私にとって、

心から沸き立つ希求ではなく、

自分のなかの仕事として、描くべき絵を描くための、わりあい事務的な旅立ちだったように思う。

結果、私は今、そぼそぼと、降りしきる冷たい雨を眺めている。

というのも、最初の、2日くらいは色んな場所を盛んに見つけ描いたのだが、

そこから日を重ねるごとに段々と

この風景を私が描かなければ、という風景に出会うことが少なくなった。

そして、ついには外に出るのをやめ、

ひがな部屋で描いたり、古本を読んだり、眠ったりしている。

切羽詰まった自然を描く旅ではなく、自然の中で自分も自然体に心の向くままに過ごし、描いたり描かなかったりする。

そんな、風景画家としての仕事を放棄した、予期せぬ「生活」がはじまってしまったのだ。

このことに、はじめ、

私は自分に失望し、もしかしたらこのまま何も描けなくなるのではないかと憂いた。

けれど、不思議と筆は動いた。

確実にここで得たインスピレーションが筆を走らせていることに気づいたのだ。

筆を動かすものは何か

この事実はいささか私を驚かせた。

題材を探すのではなく、ただそこの風景に身をおくことー。

今回の旅は、絵を描くための取材ではないということに。

2年前、仕事に打ちひしがれ、療養を余儀なくされていた私が、

何となく自然を求めて訪れた場所、

それが奥入瀬であった。

奥入瀬の自然は、平山郁夫氏が病から息を吹き返し、《流水間断無

https://hirayama-museum.or.jp/exhibition/1133

を描いたように、

私に絵描きとしての生命をふきこんだ。

2年前、奥入瀬の森をスケッチした作 《青唱》

だから、今回は、

もう一度、奥入瀬という土地がもつ不思議な力の正体を突き止めたい思いもあり、

またこの土地に戻ってこようと思ったのだ。

けれど、時を戻して今。

ここに滞在してもう4日目になるが、

私は、絵描きとして、ここを描きに来たというのに、ここの風景は描けるものではないと悟ってしまった。

昨日、曇天の十和田湖を眺めながら、

奥入瀬の自然は、2年前と何一つ変わらずそこにあることをしみじみ感じていた。

十和田湖の透明な光も、静かな波も、なにひとつ変わらずー。

悠久の、多様性の森、奥入瀬ー。

十和田湖、奥入瀬の森は
水面や地面、木々のこもれび、至る所の影が繊細で、複雑である。

それは、”重なり“ー。

そう、何十層もの重なり、あるいは深さ、風の心地よさに起因しているのだろうか。

右へ左へ弧を描き、線を描き。


細かく揺れ、波うち、また静かになる。


一瞬の水の舞いー。

ザーッと一気にきてさっとひき、

鬣のように岸辺ににうちつけるさざ波。押し寄せてきて、ざっと立つ。

例えば、京都の自然は、目まぐるしく姿を変え、ふりしきる雨は強く、災害によって残ったもの、失われたもの様々であるが、

ここの自然は、対照的に、雨にふられてもびくともせず、全ての自然が絶え間なく反響しあっている。

そう、だから。

静かに揺れ、形を変え、千変万化する煌めきは、

私のようなちっぽけな存在が追っても追っても追いつけないのだ。

ここの風景の光は、瞬間の煌めきではなく、一万年以上前からかわらずそこにあった煌めきだからー。

時間の蓄積、豊かな光を前にして、私は十和田を表現しきれないという事実を突きつけられたのだ。

けれど、

この土地の自然を捉えることは、難しかったが、

自然の息吹は確実に私を潤している。

地を、天を何重にも覆い尽くす深く、深い森。豊かすぎる自然。

ふかふかの腐葉土。

どこからともなくただよう甘い木の実のにおい。

虫も、鳥も生き生きと安心して暮らす森。

この穏やかな深い森に、静かな湖に、

無理に描こうとしなくていいよ。

ただ、この森のなかで虫が羽音を鳴らすように、小鳥が唄うように、その、自然の中に抱かれていればいいー。

そう、言われた気がした。

だからこそ、

最初のうちは必死でスケッチを重ねていたが、日を追うごとに

この生命あふれる森の記憶のなかに溶け込むように、えがく枚数は刻々と減っていった

描けば描くほど、

ただこの地の自然のなかに身をおき、暮らすだけで良いー

そんな心地になるのだ。

奥入瀬の自然は、逃げない。

だから、静かに、ここのエネルギーを、美しさをこの身に宿して、

そこで得たなにかの一念を制作できればいいと思った。

そこからは、ふっと芽を出して、蘇るものー。それを頼りに描いている。

それはいくぶん自分の意図せず抽象に向かっていっているようにも感じるが、

なにかを描かなければならないという思念から解放された今、

本当に描きたいものともう一度向き合い、素直に筆を走らせることができている気がするのだー。

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