私は風景を絵で表現するが、Instagramを眺めていると、美しい風景の写真を撮影するフォトグラファーが多く見られる。
なぜ、彼らは表現の媒体として写真を選ぶのだろうか?
逆にわたしは、なぜ風景の写真じゃなくて絵を描くのか。
本日はこの問題についてお話していきたい。
写真のような絵画とはなにか
ばっとこの画像をみて、みなさんは写真だも思うだろうか?それとも絵だと思うだろうか?
これは絵画だ。
もし、これを写真のような絵画だと思った方は、なぜそう感じたのか考えてみてほしい。
とてもリアルだから?リアルなものは写真なのだろうか?
写真は、真を写すと書く。その字の通り、その瞬間の「事実」を記録するものだ。
あくまで理性的に、視点を絞り、切り取り、自分のフィルター世界を構築し、客観的な「真実」を記録していく。あるいは暴く。
したがって写真はその瞬間の事実を広く一般的に知らしめる効果があるのだ。
一方絵画は、作者の主観が大きくなる傾向がある。
絵は糸が会うと書くように、人の手によって編み出されるものだ。
一部の絵画は作者の感情が流れすぎてともするとストレスになるが、写真は一定の距離をたもって冷静にわたしたちに語りかけてくるのだ。
ここまでくればおわかりになるかもしれないが、
「写真のような絵画」の本質は
「客観性」の比重が大きいこと
にある。
それは、ある一定の距離でフィルターごしに見ている、あるいは見られているように描かれた絵のことだ。
そのような距離感や冷静さをもった作品は、写真のような絵画である。
そのような視点でもういちど先ほどの絵を見ていただきたい。
少し伝わっただろうか?
では逆に、絵画のような写真とはどのようなものだろうか?
作者の意図や個人的感情がかなり入ったものは絵画的な写真といえる。
例をだそう。
杉本博司の「海景シリーズ」は、抽象的な画面で、普遍的で、彼の故郷小田原の海を発想の起点とした作品だ。
彼の故郷の風景がこの写真の核であることに、絵画的な要素を感じる。
https://www.shimane-art-museum.jp/collection/
カラー写真家としてはソールライターを紹介したい。
https://cinefil.tokyo/_ct/17047296
彼の写真は絵画的な要素を含んでいる。構図、色彩感覚、タッチの表現が彼にしか出せないものだ。
そして、絵画ほどのウエットな感じもなく、日常の雑踏をさらっと記録している。愛しさもあり、冷静さもある。彼の写真表現は、絵画表現と写真表現のどちらの魅力も伝えている。
杉本博司やソールライターの写真表現を紹介したが
よくみれば、それはどこまでも写真で、作者の手が入っていない。
そのため、純粋にそのもの、その場所の事実だから、誰の心にもすっと入ってゆく。
絵画は、感情に支配され、写真は、真実に支配される傾向があるといえるだろう。
だからこそ写真と絵画、感情と真実のあいだを行き来しながら、表現の帰着点を見つける視点をもつことは重要である。
写真家と画家のちがい
絵は、時間の凝縮であり、写真は一瞬の証拠である。
写真家にとって重要のなのは風景がもつ時間であり、作者がそこにいるという事実はあまり必要ではないように思う。
写真家はどちらかというと、「風景の」もつ時間に寄り添う人で、画家は風景を見ている「わたしの」もつ時間を大切にする人だ。
たとえば、わたしは画家として、風景の真実をうつすでもなす、かといってわたしひとりの感情でもない、
「風景とともにある私」を表現している。
写真は鮮度が大切だが、わたしは画家として、むしろ時間をかけて色褪せながらもなにかが凝縮されたものをつくりたい。
多くの風景写真家の作品からは作者の顔が見えない。彼らは一体なにも表現しているのか、なにを見ているのか、伝わりにくい。
それは、やはり事実にもとづいた客観性が強いからからもしれない。
わたしは、自己中心的な人間なので、絵画をやる。
わたしは見る人に自分の顔を想像させるような表現をしたい。
わたしがなにを見て、表しているのか。それは自分への問いであり、自己を追及したその先につながる未来があると思っているからだ。
写真は対象の印象、時間、真実をシンプルに切り取ることができる。それは、第三者にもシンプルに伝わる。明快な表現だ。
そして絵画は、作者の感情、みる人の感情が入り交じり糸がまじりあい紡がれひとつの布となるような個人的な情念にまみれている。
それが、怖くもあり、面白くもあるのだーー。
絵画でしかあらわせないもの
写真の客観性、第三者性について話をしてきた。
写真は、些か自分がみた本当の姿をかくす。なぜなら、それはフィルターごしの、一枚自分のからだとのへだたりがあるからだ。
だから直接の感覚を追及するということにおいて、わたしはあえて絵画という手法を選ぶ。
写真でも、構図や色彩は生まれる。
けれど、
絵画の場合、平面ということ以外には一切制約がなくて、画材も絵づくりも自分の思いのままに工夫できる。
微細なタッチや奥行きや色合いをあらわすには絵画のほうが自由度が高い。
わたしの全身全霊の感覚。それをすべて具現化するには絵しかないのだ。
その風景によって掻き立てられた歓喜、興奮、想像、感動、そのすべてを閉じ込めるためには、対象と向き合う時間が必要であり、パシャッと撮影して終われるものではないのだ。
写実絵画は、写真とはまったくちがう。それは実物をみればよくわかる。
たとえば、この絵。ぱっと見写真に見えるかもしれない。
けれど、拡大すると、、
葉の一枚、木の一片、地面の塗りに筆のあとを感じないだろうか。
どんなに精密に描かれたものでも、近くでみれば、それは無機質なフィルムではなく、人の手によって紡がれた画面だ。筆のあと、ゆびのあと、絵の具の顔料、それらが浮き出ているのだ。
そのような、絵画でしか出せない汗や泥臭さ、そして美しさのようなものを、わたしは心底愛しいと思うのだ__。