ただの「綺麗な絵」に価値はあるのか?

皆さんは、良い絵とはどのような作品をさすと思うだろうか。

私はずっと、

《完成度が高い絵》

だと思っていた。

迫力があり、見応えがあり、絵として完成度が高い。

けれど、ある人にわたしの絵を見せたとき、

努力賞

と言われた。

どこもかしこもみっちり描かれていて、見応えがある。

よく描けている。

でも、それだけだ。

それ以上でも、以下でもない。

そして、私は、そのとき気づいたのだ。

入念に描き込まれ、絵として完成されたものー。

それは、実はつまらない絵かもしれない

ということにー。

それでは、

みなさんに、実際に最近私の描いたある風景画をご覧いただこう。

わたしは、この作品を人に見せると、決まって「綺麗だね」

といわれる。

たしかに

綺麗な絵ー、木立の美しい絵できあがっているのだ。

自分でも自信作だ。

綺麗だと言われて、もちろん嬉しい気持ちもある。

けれど、本当に良い絵ならばー。

もっと、他の感想が出てくる筈なのだ。

そして、綺麗なものを見るだけなら、本物の風景を見に行く方が何倍も綺麗なはずなのだ。

絵でしか伝えられないものがあるから、絵にしているはずなのにー。

では、その一歩先のー。綺麗のその先にある絵のカタチとは一体なんなのか?

それは、

きめすぎていない絵である。

なぜか?そこには、

想像の余地があるからである。

描き込まれた綿密な画面、完成された画面では、その余地がない。

そう、どこか押し付けがましいのだ。

そう考えると、今まで見向きもしていなかったスケッチなどが、実はとても良い画だと気付くのだ。

落柿舎にて 2021

これは、京都の嵐山で土砂降りのなか、小倉山を描いた作品だが、雨垂れの粒がぼたぼたと画面に落ちて滲んでいる。

けれど、その取り繕っていない自然な臨場感が、まさにこの絵には息づいているー。

じんわりと心の奥底に広がる絵ー。

見る人に自然に染み込む絵。

それが、本当に良い作品なのだ。

だから、良い絵と綺麗な絵は違う。

そして、私は良い絵を描きたいと願う。

そのことに気づいてから描いた最初の作品がこちら

『風景』 2021 紙に岩絵具

さぁ、皆さんはこの風景をどのように見るだろうか。

溶け込むように、染み込むように、作品とともにあれー。

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