世の中には、綺麗な人がたくさんいる。
それは、外面においても、内面においても同じ女性として羨ましいと思う人がたくさんいる。
まず、美人が羨ましい。それと、性格がサバサバしてる人。自信に満ちている人。人に優しくできる人。いつも穏やかな人。
羨ましいと思う人をあげればきりがない。むしろ、まわりを見渡せば羨ましいと思う人ばかりである。
わたしはというと、女としての自信なんてないし、もてないし、美人でもないし、性格も良くない。卑屈で、人と比べてばかりで。
色々趣味はあるけれどギターとか歌とか好きだけれど上手くもない。
そんなわたしが美しい絵を描く理由を今日はお話したい。
人と接する私は格好悪い。
前述したとおり、私は、格好悪いし、生き方も外面も全然美しくない。
特に、人と喋っているときなんて、行動も言動も抜けてばかりだ。
そんな私だが、人に負けないと思うこともあるのだ。それは、自分の感性と向き合う力だ。
絵と向き合っている、あるいは風景と向き合っている自分だけは心底かっこいいと思っている。感性とからだの感覚が研ぎ澄まされているとき。これがわたしの唯一自信をもてる瞬間だ。
作家さんと話しているときも似た感覚になる。
しかし、例えば職場の同僚の人など接しているときは格好良いと思われていない。
いつも色んなことで悩み、じたばた慌ててもがいて相談していて、全然賢くない。
わたしの絵を見せたとき、意外だといわれることが度々ある。もっとおどろおどろしい内面だと思われているらしい。
でも、だからこそなのだ。いつも頭のなかが雑音だらけで社会のなかにいると心も言葉も態度もすべて乱れるわたしだから、
心の奥底で常に願っているのは、どこまでもすみきった世界、静かな世界、そして心洗われる風景なのだ。
自分の心象、性格がそのままあらわれている絵をわたしは描かない。
自分のありのままを描きたいなんて、思えない。醜いものを描こうなんて。
むしろ、憧れそのもの。いまの醜い自分ではなく、遠い遠い願い。
本当はこの世界にいたい、このように生きたいという切なる願い。
そういうものを絵にする。
↑↑↑私の描く風景
私が美しいと思うもの
だから、私の人格、言動と絵のギャップはものすごいものがある。
わたしがなにかを本当に美しいと思う瞬間は人と関わっていないときに訪れる。
一人のとき。風景と出逢い、これを描きたいと思う。そこに、その瞬間に、わたしという人間が唯一輝く。
底の底にいる私に唯一、光射す。唯一寄り添い、慰め、励ましてくれる。
それが、私にとっての芸術なのだ。
描くことで、美しい自分に産まれかわる。
だから、これからも、私はどこまでも自分にはない、自分の憧れる、到達したいと願う美しいものを求めて描く。
自分自身の生き方を嫌悪して、だからこそ強烈な憧れをもつ。
自分のなかで美しいと思う世界を守り通す凄まじい意思の力はある。
その世界だけは、この画業だけは私のなかで一生かけて大切に昇華させる。守り、育て熟成させてゆく。
それを追っている瞬間だけが、美しくない私が唯一美しくなれるのだから。
芸術だけがそこのみにて輝く密やかな宝。
どうしようもない人間である、自分の最後の砦だから___。