森美術館で来年1月3日まで開催されているSTARS展。
今回、遅ればせながら訪問したが、
その煌びやかな宣伝に逸脱しない力量とともに、刺激的な鑑賞体験を得られた圧巻の展示であった。
そこで、本日は6人のアーティストたちに敬意を表し、ここにその展示体験の魅力を余すとろなくお伝えしようと思う。
今回はかなりのボリュームになるため、展示順に2人ずつご紹介して、前・中・後編に分けることにする。
それでは、めくるめくトップアーティストたちの美の響宴へーーー。
どんっとエネルギー! 村上隆
会場に入る前から前方に見えているあのよく知られる花のファンシーな色彩。
それだけでこの展示のスタートを華々しく飾る人物がわかった。
村上隆ーー。アニメ、ポップアーティストの頂点に君臨するともいえるアーティストだ。
会場は入ると真っ先に飛び込んでくるのは中央に配置される巨大な阿吽像。
阿吽像は、さながら北斎の弘法大師修法図の赤鬼※をそのまま巨大な彫刻にしたようだ。しかも色もカラフルでさらに筋肉の肉感や凹凸が強調されたフォルムで醸すエネルギーがすさまじい。
左右の壁面には約全長20mはあろうか、まるでゲルニカのようなサイズの「ポップアップフラワー」、「チェリーブロッサムフジヤマ」の大きな富士と無数の花々に囲まれる。
平面も立体もとにかく巨大な作品に圧倒される。
満面の笑みで咲き誇る無数のフラワーは、
アニメ色の彩度の高いピンクや黄色の色面が視界いっばいに広がり、こちらに一斉に笑いかけている。強迫的な視覚的インパクト。
また、入り口付近と奥には、
「Ko2ちゃん」、「ヒロポン」、「マイロンサムカウボーイ」といったアニメのキャラの等身大フィギュアを連想させる作品たちが並ぶ。
アニメキャラクターのフィギュアのようはつくりだが、極端にのばされ、はりだし、うねり、、勢いはじけるフォルムは誇張されている。
こう見ていると、作品群の全てにおいて、
巨大性、ポップ性、大胆性といった視覚的インパクトの要素がふんだんに盛り込まれていることに改めて驚かされる。
村上隆の作品は、見ていて自分の感情や思考に訴えかけるものではない。
それは、彼が自身の作品の客観性を冷静に追求していることに起因すると思う。
彼のポップアップフラワーは美術館周辺の至るところに見られた。駅構内の電光掲示板、広告壁、広場の彫刻、、。大衆、商用利用との相性が物凄くよいことがわかる。
彼は、作品そのものよりも作品をどう広めるかに重きを置いているのだ。
自身で作品を描いたり、かたちづくっていないことも、彼と作品の間に冷静な一定の距離があらわれている要因だろう。
ある種冷めているようにも捉えられる彼の作品群は、彼が「スーパーフラット」と自身の名づける明確なコンセプトによってそれでも観るものを釘付けにするエネルギーを放つ。
ある意味自分とは切り離して考え、なにも考えず、ただこの村上ワールドを楽しめ!という感じなのだ。彼の世界観はある意味、唯一無二。
視覚的、文化的背景をうまくとりこんだ世界的コンセプトインパクトと言えよう。
おもちゃ、玩具、幼稚的要素をアートの世界に持ち込んだ始祖は自分だ
と村上氏は言う。
ポップアップフラワーは一見かわいくて花びらは原色12色相環、同系色や対比色を、規則的に並べている。
それは確かに親しみやすいポップさがある。
ただ、よく見ると花の眼は昇天が合っていないしその機械的な形、色の組み合わせは、そのうち色褪せてしまいそうな、そんな危うさも感じられる。
それはこどもの頃のおもちゃを手にした新鮮な感覚と今が大人になり冷めていく感覚に比例するものがある気がする。
このポップアップフラワーはその懸念を払拭するだけのアートとしてのパワーがあるのか。その未来やいかにーー。
静謐のなかの緊張 李禹煥
ファンシーな村上隆の展示から世界は180度一変。李の展示室は、村上氏の展示室からのぞいただけでも、明らかに違う空気を感じた。奥の部屋にはぴんっと張り詰めた弦のような緊張と静寂が漂っていた。
それはまるで自然の真理のような、宇宙のような。。
その原因を真っ先に感じたのは
「床」である。
村上氏の展示室のような無機質な美術館の床ではない。
そこに広がるのは一分の隙も余すところなく一面に敷き詰められていた、白い砂利の展示空間だった。
李氏は「もの派」のアーティストと呼ばれているが、もの単体ではなく、ふたつのものの関係性というところに焦点を置いている。
存在ではなく、存在と存在のあいだを表現しているのだ。
そう、作品を見る前から彼の展示ははじまっている。この砂利の敷き詰められたところをわたしたち鑑賞者が歩く時点でも、
その踏みしめた小石のじゃりじゃりとした感触を味わいながら、私は自分が歩くことによってその小石が動き、音が出るということを実感していた。
また、小石という小さいものの集まりが全体を形づくっている無数のもの同士が触れ合っていることを象徴していて秀逸であると直感した。
気づけば彼の世界に酔いしれていた。砂利を踏みしめながら、考えるでもなく、ただそれを踏み締める自分と私の動きによって動かされる砂利の存在と関係性を感じていた
「関係項」※を見ていると、どこから降ってきたのか置いてあるのかわからないこの岩がここになければ、このガラスは割れていなかった。こんなふうにひびが入らなかった。ということを想った。
事物、事象の変化は何かによって引き起こされるということをシンプルに、かつ劇的にあらわしている。その巨岩のマチエールと色はどこか原始的で、私たちの関係の起源を象徴しているようにも見える。
その奥の関係項不協和音においても、よく見ればただの金属ではなくなにか錆のようなものが刻まれている。
※「関係項ー不協和音」
ここまで李の作品は一貫して、床や物質に自然物のマチエールを施していること、絵画もどこかぱっきりしない自然な色合いのグラデーションで構成されていることもを仄めかす。
それは、どこか有機的な自然の中にいるような空間づくりである。
奥の壁面に「対話」という絵画があるが、ここは彼は、もの派がともすると陥ってしまう無機質感、無感情性でを乗り越えて、わたしたち鑑賞者が作品と自分のあいだにある感情や思考とじっくり向き合うカタチを追求していることを象徴していないだろうか。
静謐の自然を想わせる徹底した世界観をもつ展示空間に緊張感のある物質の扱い方。そこにはストイックな彼の姿勢も感じられる。
穏やかで、心地が良い、しかしそれでいてパキッと物質の存在を感じさせる。そんな空間だった。