ア-ティストとは、常識にとらわれず、自由な発想で、生き、活動する人々を指すと思う。
でも、わたしはそのまったく逆の人間だった。
こうしなければいけない、こう生きなくてはならない。そう思ってこれまで生きてきた。
小学校のときに中学受験をして、それなりの進学校の中高一貫校に入り、ストレートで国公立の大学に合格し、教員採用試験にも一発で合格し、現在は正規採用の教員として働いている。
こうして改めて経歴だけ書くと、なんとも安定した人生を送っている。
そんなわたしが、今こうして画家として歩む決意をしているのは我ながら不思議である。
今の職業も、安定もすべて捨ててまったく新しいことに挑戦しようとしているのだから。
大学まで常に「安定」を意識していた
わたしは幼い頃から常日頃、親から、
「安定」した仕事に就け、とかなり強調されたがら育った。
そのためわ小学校の頃から自分が将来どのような職業につくのかよく考える子どもだった。
わたしは、絵や旅行は小さい頃から好きだったから、ツアリストやデザイナーなどの絵や旅行に関わる仕事も一度は考えた。
けれど、親に安定性に欠けるといわれ、その言葉を鵜呑みにした。
こんな経緯があり、仕事は仕事で別に考えて、好きなことである絵は趣味程度でいい、そんなふうに自然に思うようになっていた。
中高一貫校に入ってからは、大学受験を見据え、国公立を、目指すようこんこんと親から言われてきたため、自然と将来は国公立の大学に入って、公務員になろうという気持ちがあった。
ただ、少しでも美術に関わる学びをしたいと思い、国公立の中でも教育学部の美術専攻に進学したのだ。
固定観念から抜け出せなかった
そもそも、画家とは、特別な人しかなれない。
才能、センス、環境、、。美大を出ている、親が画家、小さい頃から当たり前のように絵を描いていて気づいたら絵描きになっていた、など。
わたしは、ずっとそう思っていた。
だから、はなから画家になれる才能なんてないと、決めつけていた。芸大、美大に入ることはまったく考えなかったのだ。
とにかく、常識的で教養があり、人の役に立つ人間になるべきだ、と思っていた。
そのために、哲学や幅広い教養を学びたいという気持ちが強かった。
美術系の専門大学に入ったら、美術のことしかわからない狭い世界のな人間になるのではないか、という偏見のようなものもあった。
大学も、教員養成コースだったので、当たり前のように教員免許をとり、採用試験に合格して就職をする、これがわたしの大学時代の目標で、それを疑うことはなかった。
好きなことを職業にするのはできない。でも好きなことと接点のある仕事なら恩の字だと、本気で思っていた。
ここまで書いていて気づいたのだが、わたしはこうするべき、こうあるべきという固定観念を強くもって、それをまったく疑うことなく生きてしまっていた。
ようは、世間一般のこうしたほうがいいだろうという常識にとらわれて、自分の生き方を真剣に見つめないまま方向性を決めてしまったわけである。
最後は心が揺れた
それでも、大学時代の一人の写生放浪旅や卒業制作を経て、自分の中に確かに絵を描くことに没頭したい気持ちは深まっていった。
ただ、それが自分が生きていくために絶対大事なものだとは、幼いいころからの固定観念のせいで、考えもしなかった。
それでも、思い返してみればわたしは、昔から今までずっと引っ込み思案な性格だった。自分の意見が言えず、すぐ人の影に隠れてしまう人間。
負の感情を向けられることが怖くて、自分の意見をいつも喉の奥で飲み込んでいた。
そんな私が、自分を解放できる唯一の手段が、美しい風景をみたり、描くことだったのだ。
卒業するとき、もう進路も決まり、四月から教員として働くときまったときも、頭にふとよぎったのはもう少し絵の研究をしたかったな、ということであった。
しかし、世に出てひとりだちして早く親を安心させたいという気持ちから、その想いを振り切るように社会人として働きだしたのだ。
生きていくのに必要なのは、まず一人で生きていく手だて、安定した収入と、生活環境だと。
それさえあれば、仕事に慣れてから好きなこともいくらでもできる、と、いい聞かせながら。
社会人として働き、起こった事件
しかし、そのような考えはすぐに打ち砕かれることになる。
入った職場では、精神的にも肉体的にも想像を絶する負担的な業務を任された。
右も左もわからない状況でいつまでも仕事が終わらず、責任も重く投げ出すこともできない環境だった。
まわりの先輩方からは「頑張れ」と応援され、期待を裏切りたくない、と必死にがんばった。
帰宅12時すぎ、起きるのは5時半。生活なんてなかった。どんどん余裕がなくなって、ミスやトラブルも増えた。
毎日ふらふらしながら働いていた。そんななかでも無理に笑っていた。
電車のなかで、理由もなく急に涙が流れた。
職場の最寄りのホームに降りたって、動けなくなったこともあった。
職場に進んでいく一歩一歩が恐怖だった。
腹痛や、頭痛が日常的におこり、いつのまにか不眠になっていた。人生ではじめての不正出血があった。さすがに体調がおかしいと思いはじめた。けれど、気づかぬふりをした。
そして、ついに。
朝、布団から起きれなくなった。
学校に行けなくなって、初めて、勇気をだして、病院に行った。
鬱状態と診断された。
…………
まさか、自分が。にわかには信じられなかった。
認めたくなかった。自分はこんなことで負ける人間じゃない。もっとやれる人間のはずだ。ここで休むわけにはいかない。周りの人への迷惑、目線。色んなことがごちゃ混ぜになった。
働けない自分を責めた。
しばらく整理することもできない混乱した精神状態だった。
しかし、そこから半年、療養休暇ということで休むなかで、少しずつ自分を見つめ直すことになる。
最初はなにもする気が起きなかった。ベッドから起き上がる気力すらなかった。
それでも徐々に今の自分の現状と向き合うなかで、せっかくだから好きなことをしよう、と思いはじめた。
それで、試しに絵を描こうと思ったが、これが全然描けなかった。
しばらくして、ある場所へ旅行した。
そこで私はある運命的な出逢いを果たす。
心が浄化されるような風景と出逢い、それを描くことでいままでの自分の苦しみがすべて流れてゆくのを感じた。
本気で救われた、そう思ったし、そういう事実にびっくりした。
そこで、自分が本当に弱っているとき、自分を救うのが、描くことだと知ったのだ。
その日を境に、わたしは少しずつ、絵を描いて生きていきたいという想いが強くなっていった。
自分が生きていくうえで本当に必要なことをようやく悟ったのだ。
おわりに
わたしは、このように社会人の経験を経て、ようやく、自分の本当にやりたいことが何かを知ることができた。
将来どう生きるか決めるのは簡単なことじゃない。
それでも、わたしの経験をふまえて言うのであれば、
何歳でも、思い立ったらやればいい
そう思う。
本気の覚悟で、本当にやりたいと、おもえば、やれるはずだ。
よく、もう、年だから、子どもがいるからやれないという人がいる。
でも、それはその状態になるまでやらなくてもよかったということなのだ。
そこまで心が切実に求めていたら必ず行動しているはすだ。小さな行動でもいい。やれば必ずなにかが変わる。
でもそれをしなかったのは、その人なりに人生の優先順位や生き方を決め、そのように歩いてきただけだ。
やりたい、と思った時しか人はやれないし、やらない。
だから、今なにもやってないのであれば、現時点であなたにとって本当にやりたいことがないのだ、と私は今なら断言できる。
実際、今こうして夢に向かって行動を起こしていて、大変なことしかないが、やれないとは思わない。どんなに環境のせいにしたところでそれは所詮言い訳だ。
本気であれば、それこそ泥水をすすってでも這いつくばってでも生きるだろう。
絶対に死んだりなんかしない。
そんな風にやっと思えたから、これは無理だろうという常識からようやく離れることができたから、本当の自分の願いと向きあうことができた。
自分の固定観念を壊して、壊して、壊し続ける。そうして生きていくと決めたのだ。
そしたら、きっともっと人生は楽しくて、面白いものになっていく。そんな気がするのだ。