私が絵を描かなければいけない本当の理由

絵描きは2つのタイプに分かれる

本日は、わたしがそもそもなぜここまで絵を描く道を志すのか、お話したい。

皆さんは絵描きはなぜ絵を描くのだと思いますか。

絵を描くことが大好きだから、描いてて楽しいから、夢中になれるから、描くモチーフが好きだから、、きっとそこには様々な人がいると思う。

今あげたような、描くことや手を動かすこと、あるいはモチーフが好きで描いている人たちをタイプ1としよう。

これは職業としてたくさん描けるタイプだとわたしは思う。モデルやモチーフがそこにあれば無限に描き出せるのではないだろうか。描く喜び、そういったものがある人たちだと思う。

一方で、こんなタイプがある。

それは、描かないとそもそも生きていくことが困難なタイプだ。これをタイプ2としよう。

これはどういうことかというと、たぶん感受性が強すぎるのが原因だと思うが、外界から感じたことが大きすぎて自分というものを必死に保つに表現する必要がある人間だ。

大きすぎる情緒の渦のなかで、なんとか自分という存在を存続させないと息をするのも苦しい人間がいる。

描かないと死んでしまう。

そんなタイプだ。

そう、このタイプ2の絵描きがわたしだ。

わたしはモチーフを愛しているわけでも、描くことそのものを愛しているわけでもない。

ただ、描くことが息をする条件なのだ。

それが、わたしの絵描きとしての道だ。

自分の感覚そのものを描きたい

現代批評家の小林秀雄はこんな名言を残した。

美しい花がある。花の美しさというものはない。

この言葉の意味がみなさんおわかりになるだろうか。

わたしなりに、この言葉を解釈するとすれば、花を感じる心がそこにあるだけで、明確な美しさというものは存在しないのである。

わたしはこの言葉に深く共鳴する。

わたしの感覚が、主体なのだ。

例えば夕暮れを描いていても、私は夕暮れのうつくさや夕暮れというものの魅力を描いているのではない。

。あくまでわたしが美しいと感じたその時の一瞬、「体験そのもの」を描くのだ。

誰がなんと言おうと、わたしはこういう風にしか描けない。描きたくない。

こんなエゴしかない絵描きなのだ。

画家ではなくただの「絵描き」として

だから、職業として画家をやる、画家を名乗ることにとてつもない抵抗がある。便宜上画家と名乗るが、本当は仕事として描いているのではない、ただ「絵を描く人」なのだ。

こんな画家とも呼べないような絵描きだけれど。

それでもきっと、60何億の一人くらいはわたしの感覚に声なき共感をしてくれる気がする。

こんなにも素直にまっすぐに自分の感覚と向き合い、描いた先にある喜びをわたしは、不思議といつも信じている。

自分が生きているという感覚をこの胸に刻み、この身が消えてなくならないように、きっと私は死ぬまで描き続けるだろう。

その姿を最後までみなさんに見届けて頂きたいと願うのです。

未完成の風景画 制作時間は100時間を越えているがいまだ完成しない↓↓↓

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