私は芸術(アート)が好きだなぁと感じる人間です。
でも、世の中には芸術の素晴らしさがわからない人も当然いるでしょう。
その理由には、出逢いであったり、育った環境であったり、性格的なものであったり、様々であると思う。
そして、それは当然悪いことではない。
芸術の価値というものは確かにあって、でもそれが誰かの人生において絶対に必要なものであるかというとそうじゃないから。
でも、少なくとも、わたしには必要だ。
そして、当然私以外の人にも必要な人がいる。
さらに、今必要でなくても、今後芸術に人生を変えられる人がいるかもしれない。
あるいは、少しでも興味がある人がいるかもしれない。
たとえば今この文章を読んでいる貴方のように。
今日は、そんな人たちに向かって話をしたい。
私が芸術を愛する理由
世の中にはたくさんの言葉があふれているでしょう。
概念の言葉が。
わかりやすく言うと、「希望をもて」とかよく聞く台詞でしょう。
でも、「希望」ってなに?
うまく答えられる人ってどれほどいるんだろう。
愛とか憎しみとか、悲しみとか怒りとか喜びとか
そういう、自分の体験で身をもって知るしかないこと。不確かで曖昧で信用できない言葉。
それをわからせてくれるのが芸術であったりする。
言語ではなく、魂に直接かたりかけてくるのだ。それは、びっくりするぐらいど直球に心の真ん中に飛び込んでくる。
ちゃんと、わからせてくれるのだ。
それをしっかり受け止める心さえあれば、……。
それが芸術の素晴らしさだ。
芸術は、ソウルメイトのようなもの
例えば孤独に潰されそうな夜があるでしょう。
そういうときに、あなたの心に寄り添ってくれるものはなんですか。
人であったり、音楽であったりするのでしょうか
そのとき、あなたが想いうかべたものとおなじように、自分の心に寄り添ってくれる芸術が、きっとこの世界のどこかにあります。
なぜなら、世の中には実は本当にたくさんの芸術が転がってるから。これまで、人間は創作をやめたことはないから。だから、過去にも現在にも探せば、おびただしい数の芸術があって、そのなかにあなたが良いと思うものは必ずある。
これは断言する。
人類の歴史、人々の表現というものの歴史は想像を絶する豊かさなのだ。
しかしもちろん、それに出逢えるかどうか、という問題はある。タイミングや環境に大きく左右されるだろう。
それでも懸命に生きていれば、何かを掴もうと感性を研ぎ澄ましてアンテナを張っていれば、ふとした時に出逢いは必ずある。
もしあなたがそういう芸術と出会ったとき。自分が心からあ、わかるとか、これ、知ってるとか思えたとき、たぶんあなたは独りじゃなくなるんだ。
たとえこの世界にわたしのことわかってくれるひとなんて誰もいない。そういう絶望にあってもたとえ隣に寄り添ってくれる人がだれもいなくても。
わたしはひとりじゃないって思える。
なぜなら芸術家のほとんどは孤独だから。孤独な人のうみだす表現は、同じように孤独なあなたの心に、きっと静かに宿るのだ。
どんなに希望をもて、生きてればいいことある、生きてるだけで丸儲け。そんな言葉を吐かれたところで自分でそう思う瞬間がないのにそう思えるわけがないでしょう。
芸術は、あなたにそういうほんとうの生きることのすばらしさってやつを、作者が捨て身のタックルみたいに叩きつけてくれるものだ。
たとえばソウルメイトあるでしょう。この人は初めて会ったのにびっくりするぐらい気が合う人とか、初めていった場所なのにとても安心したり懐かしかったりする場所。
芸術もまったく一緒。ようは、心から共感できる相手、安心できる居場所、そういうものになりうるのだ。
芸術は「生きる希望」になりうる。
芸術にふれることは、ときとしてすごく体力を使う。
たとえば、素晴らしい芸術、そこにかけられている労力や想いが凄まじいと感じる
たとえばミケランジェロの最後の審判とかね。
ああいうのを見ると、ただただ圧倒されて、自分の感覚ぜんぶ持ってかれて、どっと疲れる。
それはなぜかと考えると、やはりがそれだけの心血を注いでいるから、それがわたしたちにも伝播している、そんな気がする。
だから立派な芸術を前にすると、なんらかの化学反応がおきて、脳や心がざわざわして疲れるのだとおもう。
わたしは、実際ある芸術をみて、びっくりして息ができなくなって涙がただ頬を伝ったことがある。
そのときの体験は、本当に不思議だった。
ある美術館を訪れたときのことだった。
わたしは広大な館内の、ひとつひとつの部屋を順番にゆっくりとまわっていた。
ある部屋の入口にはいったとき、その部屋の中の奥にちらっと見えた作品があった。それは決して大きい絵ではなかったのに、なぜか、その一点に目が釘づけになった。
すると、途端に心臓がどくどくと脈うち、全身の細胞がその絵の方に吸い寄せられるのを感じた。
そしてそのまま、意志とは関係なしに、まるで機械じかけのロボットのようにわたしはまっすぐ作品の方に向かっていったのだ。
一歩進むたびに呼吸がどんどん早くなり、ついにその絵の前に立った瞬間、息もとまり、目がかっと熱くなり、涙が流れていた。
そこにはある少女が絵描かれていた。
その時、言葉にならない感動とともに作者の表現したもの、苦悩、希望、それらがすべて入り交ざり、わたしの心をうった。
脳ではなく、心が直接彼の描いたものに反応し、彼の精神が、描かれた少女の魂が流れ込んでくるのを感じた。
わたしはのちにその作品が作者の遺作だいうことを知った。なにも知らずに出会ったにもかかわらず、わたしの感じた印象はすべて絵や作者自身の事実とリンクしていて、わたしは、確かにあの作品と共鳴していたのだとわかった。
ちなみにこれは誇張ではなく、ほんとうにありのまま起こった出来事である。
そして、この体験は、自分の人生に大きな衝撃をもたらした。
わたしは、芸術に触れることでこのような心揺さぶられ涙する体験ができたこと、そのような出会いがあったこと、自分にここまでなにかを美しいと感動できる心があることに驚いたのだ。
血が、心臓が脈うち、涙した。その状態に、はじめて本気で「生きてる」って思えた。
「生きることの喜び」ってやつをはじめて感じた。
そして、これだけ人の精神をうつものをつくりだせる人間がいること、
そんな人間が生まれる世界に希望が持てた。
さらに、
それを美しいと思える自分のことも、素敵だな、捨てたもんじゃないな、と。
そう本気で思えた。
芸術を通して、思えたのだ。
自分を、他者を世界を愛するために芸術が必要だ。
いきるために、必要なのだ。
芸術には、言葉もない。体もない。けれど、あなたの精神を底からすくいあげ、守ってくれる__。
それはやがてあなたの「生きる希望」につながっていくかもしれない。
おおげさに思われるかもしれないが、少なくともわたしの場合は、そうだった。
だから、生きるのがしんどい人、なにをしててもつまらない人、そういう人にこそアートは必要である。なんでもいい、図書館の画集でも、近くの美術館でも。SNSでも。
どのような形でもいいから、いつか、どこかであなたにしか体験できない芸術との出逢いを果たしたとき___。