みなさんは、ルネ・マグリットという画家をご存知だろうか。
このような絵や、
このような絵を描いた画家である。
いかがだろうか。
今お見せしたのは、美術の教科書などにも頻繁に登場する有名な2作であるため、一度は見たことがある人もいるかもしれない。
マグリットは1900年代に活躍したベルギー出身のシュルレアリスム※の画家として、知られる。2015年に国立新美術館で大規模な回顧展が開催されていて、日本でも親しまれている画家だ。
※シュルレアリスム‥1900年代、フランスで起こった芸術運動、主義、様式。フロイトや、マルクスの思想を基盤とし、無意識の探求・表出によって、現実を超えた本当の現実(超現実)の世界を構築した。
本日は、そんなマグリット絵画の不思議な魅力に迫りたい。
タイトルの詩情性
マグリットの絵画の特徴のひとつとして、タイトルの意味がよく分からないということがある。
これに関しては、マグリットは
「絵の題名は説明でないし、絵は題名の図解ではない。題名と絵のつながりは詩的なものである」。
という言葉を残している。
彼のいう「詩的なもの」とは一体何だろうかーー。
では、この作品から見ていこう。
この絵のタイトルは
ゴルコンダ
である。
ゴルコンダとは、1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、かつて富で知られた幻の都のような都市であったという。
Wikipedia
これを聞いたところで、この絵を果たして解釈できるだろうか。あまり、結びつかないのではないだろうか。けれど、このタイトルは不思議とこの絵にあっているようにも、感じないだろうか。
ゴルコンダというと突拍子もない幻想都市がこの作品に漂うある種の規則的で大勢の人間のいる状況、滑稽におちていく、あるいは留まるさまが、どこか都市の構造と調和するからだろうか。
さらに、マグリットと似たシュルレアリスムの系譜で語られるジョルジョ・デ・キリコの絵画と比較してみると、マグリット作品がいかに謎に満ちているかがわかる。
この、作品のマグリット絵画との共通点は、神秘性と現実の風景のような、そうでないようなというような雰囲気にあるだろう。
そして、明るい真昼の光景なのにどこか陰鬱で、不穏だ。そして古代ギリシャの神殿建築を思わせる建物のつくりが、神秘性を醸している。
この、絵画も、また謎が多いがそれでも暗喩としてわかりやすいものがタイトルと絵の繋がりのなかにある。
右上の男のの長くのびる影が女の子のこの先の暗い運命を暗喩しており、「通りの神秘と憂鬱」というタイトルとも連動している。
対して、マグリットの作品を見てみよう。
色々と混乱させられる作品とタイトルである。
人間の条件という、深いタイトルが、ついているが、この絵に人間の条件が、隠されているわけではないだろう。
どちらかというと、人間の条件というものの不透明さを、突きつけられている感覚だ。
この「人間の条件」はキリコが打ち出した形而上絵画※に類する性質も持ちあわせているようにも思えるが、しかし、それでも、キリコの絵ほどの明確な象徴性は存在していない。
※形而上絵画・・"実際には見ることができないもの(現象・景色)を描く絵画"
Wikipedia
全ての意味をわからなくさせることであえて伝えるなにかが、マグリットの作品にはある。
形而上絵画に見られるものは、
哲学的要素、真実や、真理
といったものである。
しかし、マグリットは、哲学や真理も示そうとせず、私たちの思考を一定にはしない。
あるひとつの見方を意図的に感じさせない工夫がされているのだ。
その仕掛けは二重三重より、複雑に、、。
なんとなく、そこには言葉にできない明確なイメージもない、あえていうならひとつの世界の存在を優美に示しているように思う。
そこに、比喩や理由は立ち入ることはできない。
通底するのは、静けさと幻想的なイメージーー。
そこに真実のようなもの、ユーモアや皮肉のようなもの(どれも確かではないもの)が合わさり、
私たちを視覚から思考の終わりなき渦のなかへと誘い込む。
それは見ていて滑稽なような気もする。けれど同時に美しいような気もする。この一体しない思考こそが、
それが、あるいはマグリットのいう「詩的なもの」の正体なのかもしれない。
違和感のない世界
では次にこの作品をご覧頂きたい。
皆さんは、この絵をパッと見たとき、最初に思うことは何だろうか?
あれこれ考えることなく、直感でーー。
綺麗、幻想的、素敵な家。こんな場所に住みたい。
あるいは、これは絵なのか?写真ではないのか?
そんな事を、思わなかっただろうか。
ここで、私が強調したいのは、
この絵がいかに美しく自然に、あたかも、現実の世界のように描かれているか
という点についてである。
なぜこの点が重要なのか?
それは、この風景が明らかにおかしいからである。
そして、そのおかしさに気付かせないところにマグリット芸術の特殊性があるのだ。
この絵には「デペイズマン」という、シュルレアリスムの手法が用いられている。
この言葉は、もともとは「異郷の地に送ること(dé「分離」+pays「国、故郷」+ment(名詞の語尾))」というような意味であるが、意外な組み合わせをおこなうことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせる(dépayser)というものである。文学や絵画で用いられる。
要するにありえないものの組み合わせによって、現実にはない、空想の世界を構築するというものだ。
さて、もうおわかりだろうか。
そう、この絵では昼の世界と夜の世界が同時に描かれているのだ。
空は昼で、下半分の家や木々、地面は夜である。
わたしたちは、当たり前のように昼と夜を分けて生活している。
そして、昼と夜が分かれていることを疑わない。
けれど、ここでは、逆に、【当たり前のように】昼と夜が共存している。
この絵のタイトルは「光の帝国」ーー。
その名の通り、ここは光が人間のような意思をもって昼と夜を支配する世界。
ここで注目すべきは、この絵画空間が当たり前のように自然にそこに、存在することの不思議だ。
デペイズマンの手法における一般的にありえないものの組み合わせというのは、いつも驚きや動的ななにかを伴う。
それは時に私たちに違和感を与えたり、あるいは不協和音を奏でたりすることもる。
けれど、マグリットの世界はあまりにも、自然で余裕で、穏やかだ。
こちらになにか主張してくることもない。
ただ、静かにその、存在が嘘ではない、あるいは本当であることが当たり前のようにあらわされている。
これが空想ではなく現実空間であるかのような、不思議な説得力に包まれる。
もしかしたらこのような世界があるのではないか?
こちらの常識が、むしろ変なのか?と錯覚させるほどにー。
自然な風景として、そこに存在しているのだ。
これが光の帝国を最初にお見せしたときに最初の問いの意味である。
一見、綺麗で幻想的な風景として受け入れてしまう親和性。
街路樹、街灯、民家、あかり、石畳の水溜りのうえに反射する光、、
この都会のような田舎のよつなどこかにありそうな世界を、幻想的に自然に美しく見せるためにひると夜を共存させたのか?と勘繰るほどには美しい。
これが普通の夜の風景だったら?昼の風景だったらここまで美しく見えないのではないだろうか。
常識はずれた風景が、あたかも、常識のように美しく存在している不思議。わたしたちは、そのことに、ただただ驚き、新鮮な心地で眺めるのだー。
匿名性と写実性
では、なぜマグリットの絵画はありえないものの共存による違和感を、ここまで打ち消すことができているのだろうか。
わたしはそこに二つの要素があると考える。
まずひとつは、冷静な写実性である。
あたかも写真のような筆致を消した冷静で精緻な具象表現である。
マグリットの色彩と形は現実の風景を想起させる。あの空は、月はマグリットの絵画みたいだ、と私はよく空を眺めて歩いているときに思ったりする。
それは彼がなんの誇張もなくたんたんとモチフを描くからだ。
これがモネの風景のように筆跡やまゆい色彩やぼんやりとした形などが加わったら、
私たちは彼の世界を単なるファンタジー(幻想)とらえただろう。
ひどく写実的で、一見写真のように見える描き方だからこそ、現実の光景に見えるその効果を強めている。
もう一つは、自己のこだわりを、放棄した匿名性である。
彼の選彼の絵に用いられているモチフが身近なものであること。
布、カーテン、木々、キャンバス、コップ、スーツを着た男性、リンゴ、バラ、窓、、。
奇をてらったものがなにひとつ描かれていない。
また、風景も海辺や草原など、どこかで見たことのあるような自然なものばかりだ。
そして、それぞれのモチフは画面のなかで不思議と調和し、落ち着き、不思議にとても美しいのだ。
これらのモチフについて、マグリットは絵画上のモチフに関して自己の内的思考との関連性を拒否する節がある。
いわば、モチフはなんでもよいのだ、言いたげなー。
例えば、この作品である。
この《恋人たち》に関して、彼が子供の頃に母親の入水自殺によって顔が白い布に覆われたところを目撃しており、この絵に出てくる布はその影響からである、という論説がある。
だが、マグリットは作品に自己の記憶を投影しているという解釈には懐疑的で、「私の作品は何も隠していない可視画像なのだ」と彼は書いている。
また、マグリットは、自身の絵画について、
「この世界に関する私たちの知識を深める手立て」
「思想の自由を表す物質的な記号」
マグリット辞典p115,139
と述べている。
ここから考えることは、
どこまでも、彼にとっては思考と詩の想起が大切で、絵画はあくまで、手段なのだということ。
その絵画への冷めた視点は、彼の作品をどこたなくうすっぺらくも見せるーー、。
けれどもその画布の薄っぺらさを上回る魅力を備えているのがマグリットの芸術だ。
写実性と身近なものたちの親和性、そして作者の個性をあえて消したような匿名性によって、
よりいっそう、彼の絵は個人の空想や幻想から離れたひとつの
【確かな現実のイメージ】
として私たちに迫ってくる。
滑稽で、現実にはありえない世界で、タイトルも意味がわからない。
作品の意味も、考えてもわからない。こちらを、馬鹿にしたような世界ー。加えて、薄っぺらい写真のような画面。
もしかしたら彼の絵を眺めていること自体滑稽なのかもしれない。
けれど、彼の絵の前から立ち去ろうとすると、リアルで押し付けのない冷静な現実感のある画面が私を待てといってひきとめる。
そして、やっぱり絵の前でその「現実」を感じざるを得ないのだ。
問答無用でわたしたちを「その」世界にひきこむ。これがマグリット絵画の唯一無二の魅力なのである。。
無私の気質があったマグリットは、身の回りの自然の神秘に驚き、
そして、昼と夜の存在自体に不思議な感覚を抱いたのかもしれない。
その体験を思考させるために描いたのが、【光の帝国】だったのではないだろうか。
彼は絵画のなかで自分を主張しないが、
絵画によって、意味や文脈を放棄した「ある一つのの詩的な体験」を私たちにもたらす。
理性や常識、霞がかった現実のなかにいるわたしたちを、豊かな詩と自然とイメージの世界にそれはもう、自然に誘われてしまうのだ。
その体験こそが、マグリットの絵画に出逢う醍醐味ではないだろうかーー。