「本当に美しい絵」とは何か。10年考え続け、辿り着いた答え

古今東西、あらゆる善し悪しの基準は、変わり続けてきた。

そして、絵画もー。常になにが良い絵画とされるかが問われてきた。

その答えは、なんだろうかー。

私も学生時代から、古典から現代まで様々な絵画をみてきた。

制作にうちこむようになってからは、ますます、その審美眼を自分の中に問うようになった。

日本画の大家、横山大観はこのような言葉を遺している。

https://www.weblio.jp/content/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3より引用

良い絵とは、
ああっと言うだけでものが言えなくなるような絵だ。

どうだこうだと言える様な絵、
言いたくなる様な絵は大した絵ではない。

この言葉を、皆さんはどう捉えるだろうか?

この言葉を紐解く手がかりとして、ひとつの体験をお話したい。

先日、ある絵を買ったのだが、

その絵をみたときの感動がまさしくこれであった。

小笠原亮一 《桜》

まず、あれこれ言葉が出るよりも、あっと息をのみ、みるみる引き込まれ、ただ魅入る。

近づいたり、下からみたり、斜めからみたり、離れて眺めたり。

そうやって時間を過ごし、なぜここまで惹きつけられるのか考えながらその日は帰路についた。

私は、それからその問いを引きずり続けた。

桜というモチーフが花瓶に生けられていることの意外性とか、マチエルや渋い色味ー、

それらは、もちろんその絵の良さを「語る」うえでは、挙げられることであった。

けれど、

私がその絵に惹きつけられる本当の理由とは思えなかったのである。

そして、何日か、その絵のことを考え続け、

はたと気づいたのである。

これは、こうだと容易に言うことができない。

その絵の魅力は、神秘のベールに包まれているー。

この事実こそがこの絵に惹かれる最大の理由ではないかー。

ここで、先程の横山大観のことばをもう一度思い出してみよう。

ーーー

良い絵とは、
ああっと言うだけでものが言えなくなるような絵だ。

ーーー

なぜものが言えなくなるのかー。

私が、氏の言葉に付け加えるなら、

それが

謎めいている

ということだ。

あるいは、「わからない」といってもいい。

わけのわからない偉大なエネルギーに圧倒され、電撃にうたれ、ただただそのわからなさに没頭することー。

考えてみれば、美しいものとはいつも霞みがかっていているようだ。

平等院の阿弥陀如来しかり、法隆寺の救世観音しかり、仏扉のむこうの暗闇の奥に目をこらし、どうにかその光を感ずることができる。

救世観音 法隆寺夢殿 画像:日本美術の歴史 辻惟雄

近いような遠いような、影に隠されているー。

けれど、そこに何かしらたしかにあると確信できるものだ。

そう考えてみると、

わからないけれど、そこにあるー。

この一見矛盾のような体験を起こすのが、本当の良い絵なのではないだろうか。

この桜の何を美しいと感じているのか?それがわかるかもしれないし、わからないかもしれない。

禅問答のように、その絵と向き合い

その絵のなかで呼吸し、その桜のなかで生きること。

それこそが美しいと感じることの正体ではないだろうか。

絵について、わかったと思った瞬間、

それは真に美しいものいうよりは、評価の対象、あるいは自分のなかで消化されたもので、

それはもう自分を熱狂させることはないだろう。

わからないからこそ、美しいのだ。

これが本当の、究極である。

その絵についてなにか言いたがること、それもまた何らおかしいことではない。

けれど、それは、そこまでの絵である。

本当の、原始の美しさは、いつだって容易には私たちを喋らせない。

そう、沈黙を呼ぶー。

絵の感想、絵の批評ー。それらは美術をみるうえでたしかに重要なものであるー。

けれど、わたし個人の意見でいうならば、それはあくまで表層である。

絵の見方や、これはこういう絵だといえることは、鑑賞者にとっても作家にとっても、

マーケティング、宣伝、伝達ー。

ひいては美術文化の益々の発展ー。そういう役割を担っている。

けれど、伝達よりもむしろー。

もっと深く深く、鑑賞者の心深く深く潜りこみ、

言い知れぬものが心に飛来し、宿ることー。

そこにこそ、芸術の真価があると私は考える。

それは、かなり個人的で、狭いなかで行われることで、

だが、しかし、それは実は宇宙なのである。

個人というものを深く深く突き詰めたらそこには宇宙がある。

みただけでその場から動けなくなるー。

なにを表しているとか、技法が良いとか悪いとか、そういうものも超えて、ただただわけもわからず立ち尽くすー。涙を流すー。

そういう力が藝術にはあるだろう。

そして、それは言葉になる前の一瞬の刹那であったり、いつまでも消えない不朽の命であったり、何千年と人々や自然に宿る情緒であったりする。

ただ、まっすぐに見ることである。

そして、まっすぐに魂の真ん中を射抜くように描くこと。

究極、それだけでいい。

美術文化の振興は大切なことかもしれない。

けれど、私はマイノリティでもいいと思った。

人間というのは、動物から進化していて、食い、食らわれてここまで来た。

文化や芸術とは無縁の、食うのに必死なひとー。生存本能、自己の利や快楽を追い求めることー。

それもまた、人間の姿である。

情(こころ)を知ることは、難しいのである。

けれど、同時に決して消えない火である。

人々は、生き続けていて、同時に絵を描く人も消えていない。

わたしはそれで十分だと思うのだ。

どちらが正しいとか、秀でてるとか、このように生きるべきだと、講釈なぞ垂れなくても、みな、各々、自分の生き方をしているではないか。

それでいいのだ。

私の場合は、文化芸術の心のなかに生きるー。

画家としてなにかを成し得るとか、そんな大層なことは考えない。

ただ、連綿とつながれる尊さのそばで、

ただ、その魂のなかで泳いでいたい。、

そう、それだけなのだー。

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