イサム・ノグチ発見の道 展覧会感想

光と影の彫刻

イサム・ノグチ。日本とアメリカを行き来し、国際的に活躍した彫刻家である。

今回、東京都美術館で開催されていた本展覧会は、SNSの写真をみるかぎり、上記の写真がたくさん見られたため、

AKARIの展示のほうにフォーカスされているという印象であった。

しかし、今回の展示は、はじまりこそ、AKARIのインスタレーションが出迎えてくれるが、ほとんどはイサム・ノグチの彫刻家としての仕事、その美に迫るものであった。

館内は、暗い照明のなかで、作品にスポットライトが当たっている。

その空間のなかで浮かび上がるように点在する彫刻群は、白い光のなかで綺麗に撮影された図録の写真よりも、遥かに、立体的に、かつ複雑な表情を見せていた。

例えば、アルミを使ったこの作品。

暗がりのなかで、より一層表面の模様が鮮やかに浮かびあがる。

さらに、どの作品も足元を見れば複雑な影の交錯が面白い。

また、見る角度を微妙に変えるだけで煌めく面も変わる

フォルムも静と動のあいだを行き来する面白い感覚だ。

下の作品は、軸が微妙に左に傾いている。ほっそりとした頸や足、控えめな曲線、無機的のようでいて、有機的な感覚ー。

陰翳のなかで、光と影が彫刻のなかで遊んでいるのだ。

発見の道

しかし、改めて展示全体の構成をみると、目立つあかりの造形よりも、

初期から晩年までの彼の彫刻作品が、結集し、彼の辿った道を、示す展示ー、まさしく発見の道の軌跡がよくわかる。

これが本展示の最大の特徴ではないかと察せられた。

一階の初期作品の少々荒削りな、しかしこの頃から洗練された造形、

複雑な影と抽象的なフォルム、それでいていやらしくなく、いつまでも見ていられる環境との調和。

そこから、アルミや鉄板の表面のニュアンスやさまざまな素材を巧みに生かす二階の作品群ー。

赤が鮮烈なモエレ沼公園の遊具に代表される環境への関心、

そして3階に並べられた晩年の石彫群の

研ぎ澄まされた静謐さ。

暗がりのなかで、点々と立つ石は、香川県牟礼にある彼のアトリエの外に立ち並ぶ様を彷彿とさせた。

彼の作品は、次第に作為がなくなり、

雨土の境のなかに、溶け、静寂に包まれていくのだ。

一階から3階にかけて一気に彼の彫刻を眺めてみると、よくわかる。

そう、まさしく、この展示のタイトル通り、イサムノグチは発見しようとしていた。

なにを?

おそらく、素材の奥に隠された真理をー。

そして、それを、引き出す事そのものが作品だったのだ。、

宇宙との交感

そのイサムノグチの姿勢が行き着くところが、晩年の作品だったということだ。

3階の作品群を眺め、しばし考える。

あぁ、そうかー。

これは、

人間の作為を超えた、

空(くう)

である。

牟礼の大地のアトリエが、小宇宙ような様相を醸しているのは、そのためではないだろうか。

この場所を映像で眺めていると、

不思議な作用が働いていることを、はっきり感じとった。

石積みに囲われた箱庭のような小宇宙のなかで点在している石群は、

たしかに空と、大地の「あいだ」に在った。

何かと何かが呼応しているのだー。、

そう、目に見えないエネルギー同士が互いにゆきかうー。ちょうど、雨が土と空を繋ぎ止めるように、

彼の彫刻群は確かに、何かを繋ぎとめていた。

作品の展示場、自然のなかのアトリエ。

そういう場所はいくらでもある。

けれどこの雰囲気はなんだろう?

イサムノグチの制作映像をみた。

そこにあったのは、

沈黙ー。

石は語らない。イサム・ノグチも、多くは語らない。

ただ、大地の光を浴びながら、大地の恵みに濡れる石に鑿をうちつける。

コンコンコンコンー。

刻がとまるー。

全ての生命は呼吸を止める。

静寂ー。

生き物でもなく、静物でもなく、その石たちは、なぜこんなにも優しく、密やかにいるのだろうか。

イサム・ノグチー。

大地のなかに、宇宙の中に呼吸した人だ。

彼の晩年の石彫は、まぎれもなく、その芯をけずり、けずり、研ぎ澄ました。結晶だ。

ジャコメッティが極限まで人の芯を削り続けたように、彼もまた、牟礼という大地から、宇宙と交感した最果てに辿り着こうとしたのかー。

そこには、なにひとつ、なにひとつ作為はない。

しかし、

これは、本当の彫刻である。

素材の深い部分に分け入って、魂に触れた。

自分の魂ではない。

土の、石の、魂である。

つくったものではない。けれど自然のものではない。

石が、より石らしく、生き生きと呼吸する、そのために、イサム・ノグチは存在したのかー。

そう錯覚するほど、彼の彫刻はどこまでも人を離れ、宇宙と通じている。

彼は、アイデンティティに苦しみながら、アイデンティティの枠を抜けていった。

自分がない、ないからこそ、彼は自分ではなく、素材の内部に入ることができたのかもしれない。

きっと、彼は、自分の魂のありかを見つけるかわりに、石の魂を見つけた。

素材の性質、外観、物質性の奥に隠された、声を聞こうとした。

耳を澄ませて、聞いたのだろう。きっと、それだけに、それのみに、集中したのだ。

作品をつくる、というのが果たして彼の頭にあったか。

否。

イサム・ノグチはきっと、石の奥の奥の微かな声を聞き取り、その声のとおりに身体を動かした。

そうして立ち現れてきた、石の物質性を超え、放たれたエネルギー。

それは、彫刻がどうしても持ってしまうフォルムへの注目を軽々と超える。

そう、彼の彫刻は、物質の美ではないのだ。

物質を以ってして物質性を排し、私たちを限りない宇宙に解き放つ。

その先に見えるものは?聴こえるものは?

その道の先を示す稀有な彫刻なのだー。

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