日本画が面倒くさいといわれるのはなぜ?油絵との最大の違いはこれだ!

日本画は、しばしば面倒といわれる。

初心者にはハードルが高いとも。

反対に、油絵は絵画人口として多く、趣味で始める人も多いジャンルだ。

では、日本画と油絵の技法は一体何が違うのだろうか?

それではさっそく、油絵と日本画を実際に見比べてみよう。

ジャン・シオメン•シャルダン 《木苺の籠》

速水御舟 《炎舞》

なにか気づいたことはあるだろうか。

油絵と日本画の最大の違いー。

それは、

使われている色の数

である。

使われている色が少ない日本画は、

線を生かした平面的な表現になる。

一方、

複雑な混色や重ね塗りで立体感を表現できるのが、
油絵である。

したがって、

日本画で、油絵のような技法ー。

つまり、

立体的に対象を描こうとしたり、複雑な色味やマチエールをつくろうもすると、物凄い手間と時間がかかるのだ。

実際の制作過程

では、実際に油絵のような厚塗りや重ね塗りを日本画で行うとどうなるのか。

その過程の一部を見て頂こう。

これは、墨で描いた線画の上から、肌色の下塗りを施したものだ。

この時点で、鉛筆の上から墨で線をもう一度描き直す作業が、油絵にはない工程である。

しかし、下塗り作業自体は油絵と一緒である。問題はここからだ。

木々の隙間に薄水色を、木々には暗い茶色をのせる。

木々を描き込み、

樺色と呼ばれる濃い橙色を光が当たる明るいところにのせる。

光が当たっているところに明るい白をのせる。

さて、皆さんここまで、この絵に何色使ったかお分かりになるだろうか。

そう、下塗りを入れてもまだ

わずか5色しか使っていない。

そして、各工程で

一色ずつしか色をのせられないのである。

なぜ、このような違いが生まれるのか?

それは、日本画の顔料は油絵と違って混色できないためだ。

だかや、私の作品のように、複雑な色味や立体感を追求する場合には、

この一色ずつ色をのせる過程を何度も何度も繰り返し、少しずつ厚みと深みをだしていくしかない。

ここまで色をのせるのに一週間かかっているが、まだ3割くらいしか完成していない。

このように、

日本画で油絵と同じような表現をしようとすると、非常に時間がかかってしまう。

一色ずつしのせられないということは、

油絵のような深みと複雑さな色味を出したければ、その何倍もの工程が必要となる。

例えば、油絵は下塗りのあとに、中間色、本色で終えることができる。

先程の画像を再び見てほしい。

この作品の苺の色をのせようと思ったら

複数の色を混ぜてつくって、そのままのせることができるので、一回でイメージ通りの本色がのる。

複雑な色も形も、自分のさじ加減ひとつですぐに簡単に変えることが、つくることができる。

つまり、感覚的にどんどん描けてしまうのだ。

一方、日本画はどうか。

混色ができないために、例えば橙がかった赤で彩色したければ、先に赤をのせ、その上に橙をのせるか、

もともとイメージに合った色一色をのせるしかない。

けれど、天然顔料で、人工色も限られている岩絵具では、自分のイメージしたそのものの色はないことが多々ある。

さらに、立体感を出す為に影やハイライトの色もつくるとなれば、暗い色や明るい色ものせる必要がある。

油絵と同じくらい微妙な色合いを表現するためには、何十回と絵の具を溶かなければならないだろう。

さらに日本画は、油絵のように一度に絵の具を盛って厚塗りすることは難しい。

一度に絵の具をたくさん出すことで、ゴツゴツした質感や厚い層の質感も容易に出せる油絵具。

対して、

岩絵具は、粒子の細かいものから徐々にあらいものを重ねることで重厚感が出てゆく。

この上の画像では、幹の部分に荒い岩絵具をのせ、少しだけマチエールができている。

けれど、まだスカスカである。ここから何度も何度も重ねなければならない。

まとめると、
  • 混色ができないこと
  • 厚塗りが難しいこと

が日本画の大きな課題である。

日本画において、さらっとした薄塗りの絵画が多いのはこのためである。

顔料を生かし、重ねないほうが、ラクなのである。

このことをふまえて改めて、日本画を見てみよう。

この作品も、黒の下地に炎に2色、蝶に5色ほどのみしか使っていないように見える。

そのぶん、色の濃淡や線の美しさで幽玄美を表現しているのだ。

不自由だからこそ見えてくるものもある

このように、日本画は油絵と比べると面倒な点は確かにある。

感覚のままにスピード感をもって制作することはできない。

かなりの忍耐力を要求される。

一層、また一層、幾層にも重ねた先に見える景色を求めて、何度も何度も絵の具を溶く。

少しずつ、少しずつ画面に深みがでていく。

私はもともと油絵を長年描いていて、ある時日本画に転向した。

そして、日本画と真剣に向き合えば向き合うほど、

自分が、油絵のときはどれほど自在に色を操ることができていたか、ということを実感する。

日本画は、思い通りの色をのせるのに、一体何回色を重ねなければいけないんだろうと驚愕した。

目当ての色をすぐにのせられないということは、

正直、じれったさもある。

けれど、不自由だからこそ得られるものがある。

それは、見えないものを見る力

である。

これは確実に油絵よりも鍛えられていると感じる。

まだ目に見えてこない完成図を最初から最後まで常に頭のなかでイメージする必要がある。

油絵は、自在に色や形を操れ、完成図を想起せずとも、イメージが手にすぐに伝わり、画面にあらわれる。

感覚のままに絵画を支配できる。

けれど、日本画は違う。

同じ線を何十回とひく。顔料を同じ場所に繰り返しのせる。

その作業的な工程のなかで、

不思議と少しずつ描く行為に対して神聖な気持ちが芽生えてくる。

自分が描こうとするものは、

まるで原石が磨かれて少しずつ光を増し、最後に極上の輝きを放つ、

少しずつ姿をあらわす控えめな宝石のようにー。

何度も同じ線をひくことによって、何度も色を重ねることによって、飽きることなくこのモチーフとどこまで向き合えるのか?

自分が試されている感覚になるのだ。

できあがる絵よりも、絵を描く過程そのものが、ひとつの精神の成長を促していると感じる。

作品に対する、あるいは自分が描こうとしているものへの畏敬の念を示している。

どこまでこのイメージを持続させ、保ち、昇華させることができるか。

油絵とちがって、作業が多く、感覚的にできないからこそ、

感覚を大切にしようという逆説的な気持ちもうまれてくる。

完成したときの色が姿をあらわさないから、よりその色をイメージする。

その「余白」が、

さまざまなことを想起させ、考えさせ、絵に深みをあたえる。

それは、きっと日本画の面倒くさい過程がなければ、おこらないことなのだ。

膠を煮て、いちいち絵皿に顔料の粉を入れ、膠と水で溶きあわせ、絵の具にする。そこではじめて色をのせることができる。

この作法を延々と繰り返す。儀式のように淡々と、長い長い時間をかけて熟成されていく

「なにか」

がある。

ひとつの作品とこれほど向き合う私は、寡作の画家かもしれない。

けれど、目の前のこのイメージより他に大切なものはないのだ。

だから、私は今日も日本画と、このイメージと向き合い続けるーー。

《瞬光》制作過程 部分

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