私がダ・ヴィンチよりもミケランジェロを愛する理由

まずはこの画像を見てほしい。

皆さん、この彫刻を一度は目にしたことがあるのではないだろうか。

あるいは、この絵画。

そう、本日の主役はこの傑作たちを生み出した芸術家、ミケランジェロ・ブオナローティである。

彫刻表現において右に出るものなし

ミケランジェロ・ブオナローティ。ルネサンスの巨匠ー。レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代に活躍した天才彫刻家。

これだけ聴くと、皆さんは、

「なんだただの昔の天才か。」

そう思われてしまうかもしれない。

しかしちょっと待ってほしい。

500年以上も前の人物にここまで私が傾倒するにはわけがある。

初めてミケランジェロの作品と出逢ったのは学生時代、ローマ、フィレンツェをまわっていたときだ。

ダ・ヴィンチもミケランジェロもルネサンスを生きた、同じような天才であるという認識だった。

しかし、実際、両者の作品を現地で見てまわって、

ダ・ヴィンチの絵画より、ミケランジェロの仕事に釘付けになった

ミケランジェロはしばしば

「神のごとき」

と称されるが、

そう呼ばれることにも頷ける、およそ人間技ではない彫刻、建築、絵画の数々。

彼の多岐にわたる仕事ぶりは、そう、確かに「天才」であった。

けれど、それ以上に私はひとつの感慨に支配されていた。

彼の創り出した彫刻ひとつひとつを前にしたとき、肌に突き刺さったーー。

天才の一言で括れない、腹の底から湧き上がる熱量の存在である

まるで生身の人間の息遣いまでも聞こえてくるではないかーー。

皮膚の血管、頬の、筋肉の緩み、閉じた瞼のニュアンス、服のひだの一枚一枚、足の小指の先まで神経が、感情がいきわたったその艶かしい肉体が生命の歓喜がーー。

帰国してからも、わたしのなかでミケランジェロの彫刻が頭のなかから離れなかった。

その後もルネサンス以降の人物彫刻、ロダンやジャコメッティを見たが、ミケランジェロを超える衝撃には出逢わなかった。

彼の作品がなぜこれほどまで私の胸をうつのか。その正体を探るべく彼の生涯や仕事を追っていくとー。

そこで見えてきたのは、神になろうとした男の素顔ーー。

どこまでも人間らしい1人の、孤独でひたむきな創作者の姿だった。

創作者としての並外れた情熱

ミケランジェロは、誰もがなし得なかった巨大なダヴィデを完成させたーー。

力強く、360度どこから見ても、溜息がもれるほどの美しい肉体美を、硬い大理石のなかから彫り起こす偉業を成し遂げた。

ミケランジェロ ダヴィデ像

そして、ダヴィデだけでない。

もうひとつの偉業を成したことに、ミケランジェロという男の凄さがある。

それが、《天地創造》、および《最後の審判》である。

《最後の審判》は、善人も悪人もすべて、表情やポーズを全て変え、約400人ものおびただしい数の人物を描き切った超大作である。

彫刻のみならず、絵画においても前人未到の境地に至ったミケランジェローー。。

しかしながら、

実はこの作品の着手にあたり、

ミケランジェロは相当無理をしていたのだ。

ミケランジェロは彫刻における立体表現の優位を信じ、絵画制作にはあまり興味を示さなかった。

事実、専門外である絵画制作に苦戦し、

着手から完成まで、《天地創造》は約4年、《最後の審判》は実に5年の歳月を費やしたのである。

もちろん、《天地創造》における《アダムの創造》のダイナミックな構図やポーズは見事なものだ。

天地創造 《アダムの創造》

しかし、絵画表現においては、

やはり同時代のもう1人の天才画家レオナルドのほうが、その技術は卓越しているといえるだろう。

ダ・ヴィンチは、水の動きや肉体の黄金比、機械や身体の内部構造など、

微細な万物の粒子、細胞レベルの細かい分析を、絵画を通して行っていた。

万物の研究者のように、マクロの細胞レベルの生命を構成する微粒子を見つめ続けたのだ。

そして、その一環がモナリザにあるスフマート技法であり、また人物の繊細な素描にもその性質はあらわれている。

聖女の柔らかな微笑と髪の毛の繊細なタッチーー。吸い込まれるような美しさである。

一方、ミケランジェロの絵を見てみよう。

よく近寄ってみればその筆致には、少々歪さや固さ、服のしわの描き込みにや着彩にも粗が見られる。キリストの脚の部分などは下描きの線が少し残っているのだ。

注目すれば浮き彫りになるーー。

そう、ミケランジェロはやはり画家でなく、「彫刻家」なのだ。

では、

なぜ、彼は専門外の絵画表現、しかも巨大すぎる祭壇画と天井画に挑戦したのか?

長い年月をかけ、描き切ったその真意ーー。

その答えはやはりあの空間にあった。

システィーナ礼拝堂

あの巨大な天井と壁を埋め尽くす、筋骨隆々のおびただしい人間の肉体と、歓喜、憎悪あらゆる感情がうずまき、あふれだす空間は問答無用で圧倒される。

そう、絵画だろうが彫刻だろうが手段はなんでもいい、

とにかく、人間存在の、美醜を超越した限りない尊厳をこの巨大な空間を利用して高らかに証明したかったのでは無いか。

貧富も善も悪も関係ない、人間は、すべからく愛しく、尊いのだというミケランジェロの宣言のようにも見える。

事実、彼の完成させたこの作品は、裸の人物表現が教会に適してしないと批判を浴びたが、それでも人々に衝撃を与えた

絵画表現においてはレオナルドには敵わない。それは自明のことであったように思う。

しかし、、そうであったとしても。

そんなことは関係ない、人間の肉体の、感情の美しさを、みよ!

システィーナ礼拝堂の目を覆い尽くす空間の人物たちからそういう圧をひしひしと感じた。

夥しい数の老若男女の眼が、口が、肉体が、そこかしこから訴えかけてくるのだーー。

命を懸けてつくり続けた男

 

《天地創造》の天井画制作でこんなエピソードが残されている。

無理をおして、ずっと見上げる姿勢で描いていたため、

ミケランジェロはついには首がその角度で曲がってしまったという。

身体に鞭打ち、限界を超えてつくり続けたミケランジェローー。

そうか、イタリアで目の当たりにした彼の遺した傑作たちから受けた感銘の正体がわかった。

あれは、

ミケランジェロ自身のにえたぎるマグマのような情熱であった。

神になろうとした1人の男の苦悩と歓喜のあらわれだったのだとーー。

どこまでも人間であり、ただの人間が神になろうと必死にもがいた生命の痕。

彼の彫刻や絵から発せられる言いようもない質量は、彼が全身全霊を賭してノミや絵筆に託した叫びだったのだーー。

あまりに他のものとは違う、そう魂の情念を感じたーー。必死の形相が、純粋な人間へのまなざしが、愛が胸の裡に広がり続けた。

もっと、もっとーー。

その尽きることない情熱と、瞳の先に一体なにを見ていたのだろうか。

【結論】ミケランジェロにありダ・ヴィンチにないもの

ルネサンスを象徴する天才芸術家ダ・ヴィンチとミケランジェロであったが、その性質は大きく異なった。

ダ・ヴィンチは研究者で、

ミケランジェロは表現者なのである。

ダ・ヴィンチは生涯でわずか10数点しか作品を残していない。

わたしは、ダ・ヴィンチからは創作者としての野心や焦りは微塵も感じない。

彼の作品はひたすら清澄で静かで、穏やかな空気を湛えている。

ダ・ヴィンチの信仰の対象は「人間」ではなく、「自然」である。

彼にとっては創作よりも自然を見つめることのほうが大切であったに違いない。

彼は芸術も、自然への信仰の一部として捉えていた。

けれど、ミケランジェロはーー。

表現者としての意地とプライドと野心を湛え、腕一本で、のみ一本で闘った。

芸術表現にその身のすべてを捧げていた。

彼は本当に、汗まみれに、粉塵まみれになりながら身を削って描き、彫り続けたのだ。

ダ・ヴィンチは落ち着いた精神と環境のなかで自分の世界を追求したが、

ミケランジェロは荒れ狂う野心と焦りのなかで全身全霊をかけて創作に打ち込んだのである。

早熟の天才で、多くの作品を遺さなかったダ・ヴィンチ。

対して命尽きる直前までまで鑿をふるい続け、未完の彫刻を大量に遺したミケランジェロ。

天を掴むように、必死に手を伸ばし続けたーーー。

わたしが、ダ・ヴィンチよりもミケランジェロにより強く惹かれるのは、

同じ天才なのに、ミケランジェロはまだ、まだ足りない、ともがき苦しみ続けたからだ。

同じ巨匠でも、泥臭く人間くさいミケランジェロに私は創作者としての敬うべき姿勢を見つける。

鑿と金槌で硬い大理石から彫りおこしたとはにわかには信じられないダヴィデの巨大さ。

ご覧いただきたい。ダヴィデの前で撮影したわたしの身長が台座までしか届いていない。

こんな巨大な大理石をくだく作業だけでも骨が折れるだろうに、あの完璧なまでの造形美。

それにあの巨大な壁画と天井画、何十という大理石の彫像をつくった体力はもはや人間とは思えない。

そう、ミケランジェロは神のごとき偉業をなしとげた。

しかし、ここで忘れてはいけないのは、彼もたしたちと同じ「人間」であったということだ。

近代以降、人物表現、肉体表現において、ミケランジェロの右に出るものがないのはなぜだろうーー。

彼はなんと、豊かで、人間の複雑な感情やありようを繊細にかつ大胆に表現していることか。なぜこんなに涙が出てくるのだろう。

それは、彼が誰よりも孤独だったからではないだろうか。

燦々と降り注ぐ憂慮と慈愛の雨ーー。

この頬を伝う涙は、

ミケランジェロという男の想像を絶するほどの創作への執念と情熱への共感なのかもしれかい。

死の直前まで鑿をふるいつづけ残された未完の作品群。その痛々しいまでの没熱ーー。

ーー老兵は死せずーー。老いて、傷つき、なお美しいーー。

目の前の悲壮の奴隷は、途中で力尽きたミケランジェロ自身にも見えた。

ミケランジェロ 髭の奴隷 1530年頃

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