突然だが、
私の作品は、唯一無二の魅力がある。
それは、
眺めているうちに絵の中にからだごと溶け込める不思議な絵画
ということだ。
《凍夜》2020 部分
嘘ではないので、見に来てほしい。
私の絵を前にしたとき、そこには
「広がり」がある。
画面があるのに画面の端がないような感覚。
画面の上下左右を超えて視界からからだの内部まで風景がやってくる。
それは、綺麗とか、精巧だとか技術的なところとかはまったく別の次元にある魅力だ。
しかし、残念?ながら画像だと
その効果の100分の1以下しか伝わらないだろう。
わたしの絵の感動は、絵の前にじっと立ち、近距離や遠距離でみたり、長く居ることで発動する。
5分10分と眺めているうちに次第に自分の内側に雨垂れが漆喰に少しずつ染み込むように浸透していくのだーー。
そう、一目で美しいと感じる絵ではない。
現代はSNSが流行し、じっくり絵を眺めることなくぱっと見の印象で絵が見られることも多い。
時間をかけて絵をみること自体が少ない社会において、私の絵の魅力は非常に伝わりにくいだろうーー。
しかし、だからこそ意味があるともいえるのだ。
本日は、そんな私の絵画が、直接見なければならない理由をお伝えしていく。
それは、単なる集客のためではい。
作品の最大の本質に関わる問題だ。
5センチの距離で見てほしい
では、実際に今描いている風景をごらん頂こう。
この絵はぱっと見てどういう印象だろうか?
綺麗。明るい。
そんなふうに思って頂けるのだろうか。
しかし、
綺麗で明るい絵ならいくらでもある。
そう、この絵の本質はもっと別のところにあるー。
さて、皆さんはこの地面に生えている黄緑は何だと思うだろうか?
これは、ただの芝生ではない。
【苔】
である。
これは、京都の嵯峨野にある苔寺として知られる祇王寺の、一面の苔むした地面なのだ。
しかし、先程の写真ではただの絵の具を重ねたのっぺりした芝生にみえないだろうか?
けれど、5センチの距離で寄ってみるとーーー。
いかがだろう。
苔そのものに見えないだろうか。
写真だから本物のようには見えないが、その雰囲気は少し伝わったのではないだろうか。
これは、荒い岩絵具で繊細に苔そのものの光と質感を表現している。
絵の具で苔の葉の一本一本を描いているわけではない。
私は、この作品で、
絵画として苔を描きたいのではなく、
《苔そのものを目の前にしたような体験》を平面で表す仕事をしている。
写真では、顔料の重なりや反射はすべて潰れてしまい、ただの「絵の具を塗った画面」になってしまう。
だから、
これは、実際に絵を前にして、近寄ることでわかる魅力なのだ。
2次元、3次元を超える絵画
絵画は二次元である。それを立体的にみせる三次元的要素を加え、その練度があがるにつれ、熟練の見応えのある絵になる。
ラファエロ・サンティ 《小椅子の聖母》
まるで目の前に生きているようなリアルな質感、色彩、形態。
しかし、わたしのめざす絵画はその3次元を超えた4次元的空間である。
四次元空間ーー。つまり、香りや肌に感じる風や水の感触、浴びる光や空気を感じる
「体感的な」作品
である。
画面から光の広がり、匂いの広がり、風の広がり、空気の、草のそよぎ、大地の雄大な広がり
その空間、その瞬間の
広がり
をあらわす。
そのため、絵の細部の立体感はあえてぼかしているのだ。
映える絵、華のある絵には、線、色彩、形、のメリハリがついている平面における調和の美がある。
細密さであったり丁寧さであったり、そういものが目をひくのである。
しかし、私はあえてそういう絵的な魅力を
捨てている。
体感的な「広がり」のためにーー。
そして、私の絵画において本物を見なければならない最大の意味ーー。
それは、
岩絵具による反射と深みだ。
上記のような画像でも、色彩面ではモネの風景画のような印象的な、風景そのものの光を感じることができるだろう。
しかし、実物は、そこにさらなる感覚が加わる。
岩絵具の重なりと色の深みが、光の反射のなかで粒の層が、油絵にはない滋味深さを加え、唯一無二の魅力を生み出すのだ。
上記の接写画像でさえ、深みは潰されている。
だから、直接見ていただきたいのだ。
私は実際絵を前にした人が絵的にみるのではなく、ただじっと風景と対峙しているうちに、不思議とその風景のなかに溶け込む心地がする。
それはひとえに岩絵具の何十層にも重ねた顔料の、地球のエネルギーのおかげだ。
わたしは、この顔料の生み出す神秘を生かし切る。
あえて細密に細かい部分を書き込んでみせたりコントラストをはっきりさせたり、
絵として見応えのあるものに仕上げることはしない。
なぜなら、そうすることで
技法、テクニックのほうに気をとられ、
人々は風景を見ることを、風景のなかに入ることを忘れてしまうからだ。
わたしは、自分の絵の凄さを主張したいのでひく、純粋に、皆さんに
風景のなかに溶け込んでほしい。
それは、風景や自然や文化、歴史の、脈々とそこにある、あるいは一瞬の、例えようもない美しさを伝えていきたいからだ。
わたしたちが生きているこの世界には、こんなにも美しく、深く、尊い瞬間があるということをーー。
絵の技術や描き方に注目させることよりも、風景のどこまでも尽きない奥ゆかしさを感じてほしい。
付け加えるが、
今お伝えしたことは自身の絵について私自身が語る本質であり、もちろん見る方には自由な見方をして頂いてもいったい構わない。
しかし、この絵に対する私の姿勢を知って頂くだけで、
平凡で退屈に見えるこの風景画が輝いて見えはじめることもあるだろう。
私の描く風景画は、まだだれも描いていない境地へ行くための媒介物だ。
いわゆる見ていて惚れ惚れするような美麗で上手い風景画ではない。
むしろ、
風景画を捨て、風景画の美を、絵画としての美を捨て、ただ純粋に風景に溶けるためだけの作品だ。
わたしは、さまざまな風景を半抽象のような形で描いているが、
それはどれもわたしがその瞬間に感じた香り、温度、湿度、光、あかり、、風景がわたしのからだに与えるすべての感覚を絵画というかたちで表現しているに過ぎない。
《ドロレス・パーク》 2021 部分
わたしの感覚としては、風景の絵を描いているわけでもなく、風景それ自体を描いて居るのでもなく、
風景と出逢った体験を、再び甦らせている。
私が生み出すのは、美しい絵ではなく
「体験そのもの」である。
絵は見る人に体験を産み出す装置であるーー。
次の展示は、6月ーー。ホテルニッコー東京GALLERY21のグループ展で、2作出品する。
是非、生の作品を体感し、風景への旅に出て欲しいーー。
しかし、このご時世、なかなか展示を見に行くことを厳しい方もいるだろう。
そんな方はこちらを見てほしい。
https://casie.jp/artlist/RB01451
この《Casie》という絵画レンタルサービスのサイトである。
いきなり高い絵画を購入するのも、見に行くのもハードルが高い。
ならば、自宅で生の感動を気軽に味わってみてほしい。
このサイトでは、皆さんに5作品お届けできる。
気に入らなかったらいつでもレンタル解除ができる。