建築の「美」とはなにか
昨今、建築の意義は幅広くなってきている。
建築とは、第一に機能である。
雨風を防ぐ、人々を集める「場」としての機能である。
一方で、
建築が美術史のなかでも語られることは、「建築」と、「美術」の親和性を示している。
古代ギリシアやローマでは、
アクロポリス、闘技場、浴場などの公共施設や神殿がつくられ、
その柱や壁に古代彫刻のモチフが彫られている。
中世に入ると、
その石彫は、レリーフから次第に立体的になり
建物の外壁や内壁に装飾として組み込まれていく。
しかし、装飾彫刻は建築美のほんの一部に過ぎない。
では、建築の美しさの真髄とはないか?
それは、
「空間における美」
てある。
絵画が視覚に訴え、彫刻が触覚に訴えるならば、
建築はその魅力を私たちの平衡感覚や空間把握に訴えるのだ。
例えば、みなさんはある建物の中に入ったとき、
非常に心地が良いと感じることがないだろうか?
例えば桂離宮に代表される書院空間が落ち着くのはなぜか?、
それは、空間における美と調和を追求しているからである。
部屋の高さや幅、明るさや室内のあつらえ、梁や窓と言ったひとつひとつの室内要素への細やかな工夫がされているためだ。
さらに、
それは機能と共存した美である。
古い芸術において、個人ではなく社会の機能が、重要であったためだ。
昔は絵画も彫刻も同じように機能があった。
宗教画も、古代彫刻も権威を示したり、聖書の内容を文字のわからない民衆にさししめすためー。
西欧の教会や聖堂建築も、ロマネスク、バロック、古典様式と変遷を重ねていくが
いずれも、
空間のなかの彩光や解放感、バランス、重厚感などの要素との関わりのなかで、建築美は確かに追求されていた。
これらの建築空間ならではの、美の感覚に私は絵画や彫刻と、同様、、あるいはそれ以上に美の根源を見出す。
そして、
古代都市のなかでも高い建築技術を有したローマ人の創り出したパンテオン。
そこには驚くべき機能と美が隠されているのだーー。
2000年の時空を超えて
古代都市ローマには、いくつかの歴史的建築が、今もなお現存している。
しかし、
そのなかで、パンテオンの存在感は傑出していた。
なぜか。それは、
完全な形として残っているためだ。
コロッセオやフォロロマーノは一部が欠けていたり、消失してしまっているため、やはり古代の面影を偲ぶものである。
しかし、パンテオンは、昔をまったく感じさせない。
わたしたちの目の前にありありと現在軸として姿をあらわすのだ。
建築の機能とは、やはり堅牢で壊れないということ、長い年月、保存されうることが第一に考えられる。
そういう意味でパンテオンの存在感は圧倒的であった。
その巨大さは、まわりをゆっくりすべて歩くと数分かかるほどである。
深い堀から礎石もなく、そびえるローマンコンクリートの石壁。
苔むした石の継ぎ目。
剥き出しの火山岩の、混ざりあった色合いの風格ーー。
その趣きの深さはとても言葉では形容しがたいものがあった。
なんという存在感だろう。古めかしさなど微塵も感じない。
2000年の時を悠々と存在し続けた、その石の積み重なりが今目の前、10m先に存在していることの不思議。
正面や建物の横から、巨大すぎる建物を人々はただ仰ぐのだ。
石柱は人が50人束になって入れそうなほど太い。
その上には流麗かつ古典的なかっちりとした装飾が鮮明につくられている。
文字も、細部も鮮明に美しく残っている。
2000年の時を経て、まったくびくともせず光を放つ完全無欠な建物。それがパンテオンなのだ。
過去と現在の交錯する場所
パンテオンは、不思議な場所にある。
バス停から歩いていく道のりですでに違和感があった。
建物に囲まれて、まったくひらけていない街。
視界も閉ざされ、バスも車も通れない狭い道だ。この先に本当に古代建築があるなどにわかに信じられない。
しかし、突如として入り組んだ狭い路地を抜けた先に突如としてぱっとひらけ広場があらわれ、巨大な建造物があらわれる。
その唐突な出会いにまず驚かされた。
なぜ、ここが急にひらけてこんな場所に出るのか?
狐につままれたような、間違えてまったく別の世界に来てしまったような。
どこでもドアを、あけたらきっとこのような気持ちだーー。
ぼうっとその広場に佇み、その古代の建物と、隣り合うアパートを交互に見る。
広場で椅子をだし、チェロを弾く妙齢の紳士。それがクラシックのイタリア音楽のようであった。
その響きを聴きながら、なにやら私は古代ローマの都市の活気のなかに自分がいると錯覚した。
いや、錯覚だろうかーー。
違う。
やはりここには古代の風が、空気が流れているのだ。
パンテオンの存在、いりくんだ街中の広場、石畳の路地、噴水、彫刻、ひしめきあう石造りの建物、すべてに古代の活気が息づいているように思えた。
ここは、「あの場所」と繋がっているーー。
思い返せば、ローマを歩いていると古代への回帰を促す場所があり、古代の神話や文化が自然と根付いているのを感じた。
ローマの美術館では、古代彫刻と現代のデザインを展示空間において、融合させ、さらに新しく見せていた。
フォロラマーノの古代遺跡も不思議と違和感なく、古いものが街中に自然に溶け込んでいるように、この展示空間も新旧が当たり前のように共存していた。
そして、この広場は、まさに、
過去と現在の時空が交錯するもっとも象徴的な場所といえるのだ。
万物の神殿
ここまでパンテオンの外観と周囲について語ってきた。
しかし、パンテオンの最大の感動はその内部にある。
わたしは、実際このとき、初めて、建築の感動というものを、知った気がした。
万物の神の神殿ーーー。
そう呼ぶにふさわしい、皆さんはおそらく鳥肌とともにその中心にたちつくすだろう。
外観は、巨大で歴史の風格を宿しながらも柱や壁の装飾はまこと簡素であまり美麗な印象は受けない。
しかし、一転して内部は壮麗ーー。
床や壁、柱の配置や数は規則と、変則の重なった凝った内部。
幾何学的形や色大理石の美しい組み合わせを、空間や窓は複層構造になり、複雑である。
その空間の深み。
しかし、それだけではない。
この空間の、神聖さはなんだ?
吸い込まれるようにず天を仰げば、そこではじめて、巨大な円穴が天蓋の中央にあいていることに気づいた。
そこから太陽の光が放射状に降り注いでいた。巨大なドームのすべてを余すところなくすっぽりと包み、慈愛に、みちた柔らかい、光であった。
そうか、わたしが初めてこの建物に足を踏み入れ感じた感慨はこの天蓋によるものであった。
これは、空でもない、部屋でもない、天と人間の営みをつなぐ不思議な装置に思えた。
こんな空間、味わったこともない。
私の思考は停止し、ただただ涙が出た。
わたしは建築にまったく明るくない。それでもこれが本当の建築の感動だと、しみじみ、思うのである。
たとえばバチカンの大聖堂は歴史的威風や、装飾美に圧倒されるが、この場に長くいたいと思うことはなかった。
けれど、パンテオンは、なぜか文字通り離れがたい「空間」なのだーー。
パンテオンの外壁はとても重厚で、歴史の圧を感じたが、内部はどうしてかーー。非常に現代的で、万物、万人に、等しく与えられた優しさのようなものをたたえていた。
厚いクーポラの内壁にに並べられた無数の四角は放射状に広がり、ひとつひとつの四角はマトリョシカのように5重にかなさり、外側に広がってゆく。
そしてその四角の陳列はまた、放射状に連なる。
広がりが広がる。
そんな二重の解放感をもたらす構造ーー。
連続性と規則性、縦横無限に続き、広がりゆく空間ーー。
さらに、空間全体としてもどこもかしこも角を感じないのである。
窓にしろ、アーケードにしろ、内部のあらゆる部分に曲線が使われ、また空間全体の壁も天井も円状である。
解放と、光と、円。
それがパンテオンが有する唯一無二の至高の建築美なのである。
ローマを歩いていると、このパンテオンにおける光と円と、解放の性質が、
現代に至るまでローマのさまざまな建築空間において基にされ、用いられていることに気づく。
美術館内部のクーポラを模した円状の天蓋やアーケード
広場で見られる現代の建物。縦横に規則的な広がりのある窓と桟の配置。
《採光の工夫》彫像に美しく光が差し込むように光の当たり方や位置が計算されている
パンテオンがここまで新鮮な感動を与えるのは
古代ローマ人の旺盛な創造性が発揮されているからではないだろうか。