秘密基地へようこそ、奈良美智
奈良美智というアーティストは、とても不思議な人だ。
わたしは一度、彼の講演会に参加したことがあるのだが、
なんて謙虚な人だ、と驚いた。
彼の作品の現物をみればわかるのだが、奈良さんほど線や色が美しく洗練された現代の日本画家をわたしは知らない。
それなのに「自分はそんなに絵が上手くない」と語っていた。
彼の少女像は美術史におけるキリストのイコンであったり、中世のビザンチン様式の平面性や線の象徴性と現代のキャラクター像を巧みにいれこんだ絵画史に残る技術であると感じている。
彼は絵や芸術に語ることは少なくて、一方でInstagramでは、好きな音楽や故郷の思い出、自分が大切にしている物などをよく投稿しているのが印象的だ。
それでも、
「職業としてではなく生き方として画家を選んだ」
と語る奈良さんは、シンプルに格好良く、憧れる。
その言葉通り、彼の発信を見ていると純粋な絵描きとして日々奮闘する体育会系という感じで自分も頑張ろうと、と思えるのだ。
気ままで、こだわりがすごくあって、自由で、猫のようだ。
大御所なのに大御所っぽく見せない、純真な子供のような一面が恐らく人々を魅了する。奈良さんの描く絵も、奈良さんの魅力あふれる人間性も、全部ひっくるめて愛すべき、奈良さんにしか生み出せないアートだ。
だから、わたしも親しみをこめて彼のことを「奈良さん」と呼んでしまう。
謙虚で、子どもっぽい純真さもある。けれど、絶対にゆずれないものがある。そう、あの彼の描くこちらをじっと見つめる少女にそっくりなのだ。
そんな奈良さんの展示室だから、入る前からもうわくわくしていた。
そして、入った瞬間も、やはり期待を裏切らなかった。
そこは、
無邪気だけどこだわりがすごい!完全な奈良ワールド。彼の庭、家に招待された気分になる。
奈良さんが普段から愛聴しているであろうプレイリストの音楽が流れ、
入ってすぐにずらあっと並ぶのは彼のcdコレクションだし、本棚もこれ、アトリエの飾り棚そのまま持ってきたようだ。
こんな超個人的な空間だというのに、それが展示としてさまになるのが奈良美智というアーティストの魅力なのだ。
奈良さんの展示空間にくると皆、笑顔になる。あ、玉葱王子!と言ってばあっと笑顔になってかわいいかわいいいってる。
若い男女などが興奮気味で作品と一緒に写真を撮ってたりする。
私も入った瞬間思わず、わぁと声がもれた。愛しさのような懐かしさのような、なにか大切なものに出逢ってしまったような興奮があった。
宝箱のなかをのぞいたような感じ。秘密を共有しちゃったようなこそばゆい気持ちが湧いてくる。
反対側の壁に目をやれば、奈良さんのコレクションとともに、初期のものも含めたドローイングがたくさん展示されている。
ここで驚くのが、紙が破れてる、曲がっているもの、裏紙で文字が透けてる紙も額に入れ飾ってしまっている自由さ、恐らくばっとそのへんで描いたものなのだろう。
けれど、そんな落書きのようなものでさえ、素敵な「作品」となっていることに驚く。
さらに奥の展示室に踏み入ると、さらに秘密基地感が増して、奈良さんの家から奈良さんのファンタジー世界に入った気分になった。ディズニーのアトラクションのようなわくわく感。
展示室は、夜の世界観という感じで黄色系の作品が補色の紺の壁にとても映える美しい空間。
壁は夜の闇を思わせる暗めの紺青で、そこに小屋の少女の黄色の頭や壁にかかる巨大な黄色のお皿が映えることはえること。キャプションまで壁と同じ色で統一されている。
楽しくて、でも静かで、キラキラしてて、大切な空間。ちょっと切なくて孤独で。
真ん中にどんと構える小屋は中を覗くとやっばりちいさな宝物がつまっているような。
《Voyage of the Moon (Resting Moon) 》2006年
ところで、《Voyage of the Moon (Resting Moon) / の中には、入れない。中のものに触ってもいけない。
一見、体験型のインスタレーションに見えて実は立ち入ることはできない。
だから、わたしたちは奈良さんの世界を覗くという図式になる。
このことは、奈良美智という画家を語る上で重要なことだと感じる。
そう、彼のなかには、親しみやすさと同時に、
「絶対的な孤独感」
という相反するものが同居している。
だから、簡単には立ち入らない
「領域」
があるのだ。
それが奈良作品の単なる親しみやすさやかわいさにひとつの深さを与えていると考える。
この作品は、うすく塗り重ねられたドロイングの色が本当に奥深く美しい。ここには何十もの絵との格闘がある。でもこれもとても自然に見せていて、嫌味じゃない。
奈良さんの絵は、少し女性的というか、柔らかさやしなやかさがあるような感じがする。深みもあるけれど、それだけじゃない。勢いと繊細さの同居ー。絵としての完成度がものすごく高い。色も線も。
___真夜中の秘密基地、流れる音楽、静寂と孤独と月。
キラキラした眼スパンコール散らしたみたいな《Lonely moonlight》の少女。
泣いているような怒ってるような真っ直ぐなうるんだ彼女の瞳がやきついて離れない。
部屋の片隅で目を閉じてじっと佇む《Miss Moonlight》
彼女は、どこまでも静かで、絶対に踏み込めない領域を讃えている。
この少女たちは、孤独で、だれにもわかってもらえない何かの感情を静かに訴えてくる。そう、彼女たちは、奈良さんでもあり、私たち自身かもしれない。
《Lonely moon/vovage of moon》2006
奈良さんの愛とやさしさと孤独は、純粋にわたしたちを癒やしてくれるだろう。
奈良さんの作品は不思議と「見る」というより、「逢いにいく」というイメージだ。何度でも再会したい。孤独と癒しと意志の力を宿したあの子に力をもらいにゆくんだ__。
原始の旅__杉本博司
杉本博司の展示空間にふみいって、最初に感じたのは
葉の擦れる音だった。
薄暗いなかにぼんやりとしたあかり。
きりっとした人工的な照明ではない。
そこにはなにか自然の光を感じた。
シロクマと横たわるアザラシの写真だ。なんだかその自然の摂理が妙にリアルに感じられた。あとで気になって調べたら、はく製のシロクマがまるで生きているように見えて、その様子を表現したという記事を見て、なるほどな、と感じた。
つくりものがつくりものでなくなる瞬間、死んだものを、生き返らせる芸術__。
次に出会ったのは《北大西洋ニューファンドランド》、《カリブ海 ユカタン》3作品による《レボリューション 》である。
海景を横にして作られたこの一連のレポリューションは、不思議と空と海のなか、その昔、大航海時代はたまたカリブの住民が新天地を求めて航海したその光の道を、を象徴しているように見えた。
中央の小さな光の点は真っ暗な航海のなか、オールを漕ぐ人々が仰いだ北をさししめす希望の星ホクレアか__・
彼の撮る写真は抽象的だが、わたしはいつもそこから自分自身の経験を掘り起こされる気持ちがする。不思議だ。
さらに、次の展示室で、わたしたちは、自分が生まれたときからの記憶だけではない、そこからさらに先祖の、太古の昔の記憶にまで遡り、繋がってゆく体験に出逢う。。
《時間の庭のひとりごと》
最後の部屋で待ち受けていたのは、杉本氏による小田原に巨大ランドスケープアート《江の浦測候所》を舞台にした長編映像作品である。
長い映像のなかで、彼は測候所に設置された様々なものになりかわり、時空や場所を自由に行き来する。
西洋、日本、時代を見てきた文化の礎、ローマ神殿の礎、法隆寺の礎石、利休の待案、明月門、竹林。
神代の昔、飛鳥、平安鎌倉室町、、。
彼はいう。
時の庭を旅しよう。
冬至の日。
神楽の舞。岬の先にたつ。一直線にのびる。暁があたる肢体をテラス。コントラスト。
人々の影と、杉本の影が重なる。海を、波を、木々と一体になる、、。
地べたにはいずり、岩肌をなめる。石粒の表情。雨のしたたる音。
昔のことがふっとよみがえる。
生命の歓喜。産声をあげた日。うまれたしあわせ。その瞬間ー。五億年前三葉虫。人間もここから進化した。
もぞもぞと手足を一生懸命動かして。まだ目も見えない鳴き声がひとつ、ふたつだんだん増えておおきくなる!夜明けだ。朝日だ!歓喜、春の訪れだ。誕生の喜び。からだいっぱいに表現する。
これは追体験だ。昔の人々も朝日を見つめた。海を眺めた。わたしたちもみている。
ふっと蘇る歴史の足跡。
一緒に思い出そう。
あのときの、生を。燃えたことを。心が生まれた時のことを。はじめて海をみたとき。はじめて陸を見つけたこと。わたしたちは知ってるはずだ。
波の音が心地よいのはなぜか?
母親の胎内の音と似ているためと言われているが本当にそうだろうか?
母親だけでなく、自然の音に癒されるのは、地球というゆりかごのなかで、
「私たち」が
生きてきたからではないのか?
海で、土や木々のなかで、進化してきたからではないだろうか?
五億年前の三葉虫の記憶が、はたまた500万年前に誕生した原始の故人の記憶がままだ残っているからではないか。
そこには、生命が生命たらんとした最初の進化の秘密が眠っている。
この時の庭では、それが思い出せるのだ。
竹のさやけき。さらさらさら。
小さな箱庭からしだいに上空へ。地の底から地面、石、木々、森、空、海、、。
人間の原点、最初の記憶。
そこに還って、、。
終わりに
杉本氏は華厳の滝で野宿し、原始の滝を見たという。熊野の山奥に分け入ると、そこには霊気が宿るという。わたしも長野を訪れたとき、山雲のなかに山霊信仰を感じた。
そう、日本は、まだ自然のなかに神が息づいている。
人間は、ここに戻ってこれれば、また進化できるのではないか?そんな気がする。
わたしたちは、束の間、太古の歴史の記憶と共にあった。目を閉じれば、石と海と、木々とともに記憶の波を泳いでいる。
そんな壮大な感慨の沸き起こる杉本氏の展示。
STARS展の最後に彼をもってきた意味がここにはある。
氏は、人類の遠い歴史と私たちをつなぐ、文化そのものの生まれる瞬間を想起させ、
わたしちたちに美の系譜、思い出すことの重要性を説いてはいないか。
ミケランジェロの彫刻も古代に回帰した。彫刻はやはりヴィーナスで止まっているのかもしれない。古代ローマの建築技術、ピラミッドの技術、ナスカの地上絵を現代人は超えられているか?
宗達の芸術は光琳、抱一と何百年もの間を経てまた思い出され、あらたに紡がれた。文化の系譜は、今、再び繋がれるのか。
私たちは常に文化の瀬戸際にいる。それをつなぐか、断つか。それは、「私たち」にかかっているのかもしれないーー。
STARS展 追想 終