ミケル・バルセロ展 展覧会感想 ___うごめく一切への鎮魂歌__

私が、ミケル・バルセロという画家に興味を持ったのは、

画面上でこの作品を見たときからである。

     雉のいるテーブル


この絵の禍々しさを一目みて、このスペインの画家に強烈な興味を持った

なぜなら私がかねてから感じていた、

中世から近世まで連綿と続く、スペインの暗い歴史ー。

グレコ、ゴヤ、ピカソ、ミロ、ダリらの奇想の系譜を、想起させたからでる。

私が以前の記事 https://artkururi.com/?p=3677

に記したように、スペイン絵画に強烈に惹かれるのは、

人間、あるいは大地の「恐怖の根源に関わる底知れぬなにか」を示しているからである。

この現代美術家もまた、その血を引き継ぐ者なのだろうかー

騒ぐ心を抑え、そのことを確かめるように、本展示へと向かったのだ。

しかし、そこでは、私の期待とは裏腹な思いがけない感慨が待ち受けることになるー。

止まった絵画

次々とあわられる大作ー。それらを生で見た私の第一印象ー。

それは、こんな感じか。

という、シンプルなものだった。

つまらない作品では勿論ない。けれど、取り立てて心が動かされるものではないー。それが正直な感想であった。

       海のスープ

巨大な絵画ー。たわんだキャンパス、さまざまな素材を混合させたであろう、物質感。

作品ごとに、キャンバス、板、小石、顔料をことごとく変化させ、

ひとつとして、同じ形式、材料、技法の作品はない。

     亜鉛の白 弾丸の白

しかし、それはどこか他人事で、イリュージョン的であり、

表面のゴツゴツとした物質感に圧倒されるばかりで、私の求めていた内省的な感動はなかった。

セラミックでつくられた、でこぼことした器たちもどこか遊戯的に見えた。

      開いた無花果

私は、少しの落胆を抱えた。

ぼやっとした消化不良な気持ちのまま、上階の展示に向かったがー。

しかし、私はそこで、思いがけず目をひらかされることになる

そして、バルセロの、本当の魅力に目をひらかされることになるのだー。

うごめき、失せてゆくものたち

そこで待ち受けていたのは、

バルセロのアフリカでの画帳や紙の作品の展示であった。

それらは驚くことに、一階の大作とは比べようもないほどに

アフリカでの実生活しながら描いたそれらの作品は、

めまぐるしいほどに、「生きていた」ーー。

影のライン

それは、もう気を失うほどの熱気ー。

虫食い、たわみ、折れ目の残る紙、黄ばみ、砂や岩石がこびりついたスケッチブックー。

作家の熱気ではない。アフリカという大地の土の、生活の、熱波である。

現地の民族たちと土をこね、目もあけられぬ強烈な土ボコりのなかで、

彼の感じた熱さと極限が、まざまざとそこには残されていた。

影、蜃気楼、光、虫、太陽、光熱風

わたしは次第に気持ちが汗ばんでくるのを感じた。

ざわざわと、なにかが崩れはじめる。

ドモ

黒い頭。、白蟻にくわれた虫食いの紙ー。

胸をだして腰をまげ、紫のスカートをなびかせる少女。

しみ。土。汚れ。にじみ。穴。

河原を歩く人々。

マリの河畔

そのうだるような熱気。

彼のペーパーワークは目を見張るスピード感と鮮やかな色彩と線の流動によって、ことごとくに魅了された。

純粋な、パッション、生命、根源のうごめきー。

生え、芽吹き、開くー。

内生する1人を含む4人
種子の目覚め

生きている。目の前にいる。速攻で描く。止まらない。有機的なものは、一切が消えてなくなっていく。遅かれ早かれ。多かれ少なかれ。

その流動。

ダンテ 挿絵

流れ、流れ、決してとまらない時間。その時間の片鱗。のびてゆくもの。動いているもの。生まれるもの。消えゆくもの。

彼の筆跡が、身体の跡が残像となって浮かんでは消える。

削り、スッと描き、ぼつっと大きな筆で点をおき、ぬるっと、首にまく。

ざざっと細い線をー。

滲んだ細い腕。

ほそくのびる足先の指。

粘土にあいた指の"あな"。

絵をみていると、だんだん動いているバルセロと一体になるのだー。

強烈な感覚が身に伝わるのを感じ、

私の足は、再び下階へと向かった。

動き出した絵画

すると、どうだろう。

はじめは、止まって見えていたバルセロの大作たちが、動き出したのだ。

そう、だんだんと、

動いているように「みえてきた」のだ。

さらに、再び作品と対峙するなかで、

初めは見えてこなかった彼のイメージの重複にも気づくことになる。

幼少期を海で蛸を獲り、果実を採って自然と戯れていたバルセロのモチーフには、

メロンや蛸がよく登場する。

そして、うねる生き物、海の流れ、腐りゆくもの、それらに共通する流動を、各々の物質において表現しているのだ。

腐る。うごめく。

緑のメロン、冬のメロン、熟したメロン
幼生

座る。 凹む。

座る

飛び込む。

映像資料 

水が流れる。滴る

雉のいるテーブル 部分

生き物がうねる

恐れと震え
たくさんの蛸

積み上がる

積み重ね

刺さる、突き上げる。

海のスープ

カピロテを被る雄山羊

裂ける、割れる。

裂け目と亀裂

まわる(循環する

影/太陽
イン・メディア•レス

点在、蛇行

マンダラ
緑の盲人のための風景II 部分

絵を眺めているうちに、目を閉じ、それを指で撫ぜて何かを確認したくなるのだ。

消えたあとに残るもの

バルセロの作品たちは、すべてが繋がっていた。

心がざわつく。

目覚め、伸び、うごめく骨、茎、葉、肉、天候、大地の変動、あるいはことわりー。、

生き物の根源的な流動ー。

それらのことごとくがここにはある

土が、岩がごつごつと、凹んだり、削られたり、突出したり、隆起したりする。

スケッチブックは汚れ、飛び散り、はじける。

その画帳は、《一切は流動である。》と叫んでいるようだ。

バルセロによる、ライブペインティング映像をみる。

そこに映るのは、全長200mの大ガラスに土で大地や骨を描く、あるいは大きなキャンパスに水のみで描き、消えるまでを眺める彼の姿である。

映像のなかで、バルセロは、「物質と身体の関係性」について話している。

絵画は、身体によってつくられるものだ。

そこに物質が介在しているー。そして、そこには(時間)の問題がつきまとっている。

なにを描こうかなどと考えてはいけない。考える前に描くのだ。

速攻で描かなければならない

と。

一階の大作品、おそらくアトリエで描かれた堅固な作品より、

すぐに消えてなくなってしまう水の幻影、ガラスに土で描いた壁画のほうが、強烈な美を放っているのはなぜだろうかー。

そのヒントは、

次のバルセロの言葉にあるのではないか。

一切は、多かれ少なかれ、早いにしろ遅いにしろ、消えてゆく。

それは大した問題ではない。

だから、ガラスに土で描くし、布に水で描く。

消えた瞬間に、それが大切だと、美しいとわかるのだからー。

こんにち、何かを長く遺すことに躍起になるばかりだ。

けれど、もしかしたら、作品の堅牢さは、作品の価値や美しさに比例しないのかもしれない。

絵画も、壊れないもの、きれいに額がつけられたり、側面が処理されたり、

耐久性の高い絵具や基底材を使うことが重要である場合が多い。

けれど、バルセロの芸術は、そんなものは気にしない。

むしろ、その脆弱さに美を見出している。

消えゆくものに美しさが宿るのだとしたらー。

描くというその一瞬に命が宿るのならー?

ミケル・バルセロ展ー。

私の芸術観にまたひとつ革命を起こしてくれた。

ここから、もっともっと自由になれる気がするのだー。

https://www.operacity.jp/ag/exh247/

本展覧会は、東京オペラシティギャラリーにて、3月25日までである。一目ご覧あれー。

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