ゲルハルト・リヒター展____ 無機と人間の狭間で

先日、閉幕迫るゲルハルト・リヒターの大回顧展を見るため、東京国立近代美術館へ足を運んだ。

私のなかでリヒターを見る目的としては、

ドイツ表現主義から連綿と続く強固な下地のうえにつくられる、

冷静で強度のある現代美術に触れ、

自身の作品の強度を改めて見直すきっかけにしたかったというのがある。

その幅広い作品スタイルに触れておきたかったー。

しかし、実際に足を運んでみると、

作品よりも、

リヒターという人間自身が迫ってくるという、

思いがけない展示であった。

とはいっても、最初は私も作品のほうに注目していたのだ。

実際、会場に入ってすぐ目をひいたのは、氏の色鮮やかなアブストラクト・ペインティングだ。

周りでも、アブストラクト・ペインティングの鮮やかな色彩や作品の大きさ、質感に圧倒される人々の姿が見受けられた。

この作品の色が好きという声も聞こえたり、

かくいう私も、ある作品そのものに釘付けになった

この作品は、刷毛による繊細な筆づかいの繰返しによって描かれているのだが、何度写真を撮っても、まったくそれは映らず、ぼやけたように映ってしまう。

不思議な作品だ。

そばで見ていた人も、ただ、

なんだこれ、すごい。。と言いながら近くに顔をよせて凝視していた。

実物とまるで違う美しさを放つので、これはぜひ本物を見て頂きたい。

リヒターは、

「人間的であること」

にひどく懐疑的である。それは展示の中で少しずつ明らかにされていく。

例えば、先程の作品のように、グレイを用いる作品は多い。

鏡の作品も、写真も、どこかぼやけたグレイだ。

(配布される作品リストの表面もグレイだった。)

それは彼の代名詞のようにー。

リヒターによれば、氏がグレーを好んだのは、

それがどこまでも無機的であり、中立であるからだという。

また、自然についてはこう語っている。

自然は、非人間的である。そこに精神性は存在しない。人間が、自然に対して、美醜や不思議といった感覚を当てはめているに過ぎない。

これは、一見、至極当たり前のことを言っているように思う。

ぼやけた風景からは、なにも感じない。ただ、自然の風景という存在があるだけである。

しかしながら、

リヒターはなぜこんなにも有機的なもの、つまり人間を遠ざけようとするのか?

そこにある一つの違和感が生まれるのだ。

こんなに作品スタイルが違うリヒターの作品群に、

彼の何かに囚われながらもそれに抗おうとしているような、そんな血生臭い人間性を感じずにはいられなかった。

なぜなら、

こんなにも、

執拗に人物を風景を題材に選んでいて、

それをぼやかしたり、塗りつぶしたりして、何が何だかわからないようにしてしまうのだからー。

実は、ドローイング作品、油彩、写真、映像ー。全てに通底している。

上のドローイング作品では、女性が、座っているのだが胸から頭部がすべて塗りつぶされ、よく分からない状態にされている。

写真でも、映像でも、人間はぼやかされ、どこか無機的なものとして表現されている。

実は、

このとき、私は何故か

ビルケナウを見ていなかった。

今回の展示の主要作品として宣伝されていた作品にも関わらず、だ。

今思えば、

色鮮やかなアブストラクト・ペインティング、美しい作品群は彼を隠していた。

そして私をビルケナウから遠ざけていたのだ。

けれど、それは彼の根本、奥底に流れているものだったー。

それに気づいているのだろうか。

ある種、おぞましい感情をー。

それは、氏が無機質のグレイを好んだ理由ともつながる。

美しい風景や人物のうえに、にべもなく絵の具で、文字通り“潰された”作品。

貴方は、これを観てどのように思うか。

これは、冷酷で、残忍ではないのか?

私はそんなことがよぎったりする。

けれど、リヒターの作品が

あまり、そのように感じさせないのは、彼が感情と適切な距離をおき、

そう、進んで、自身の人間としての主観を排除し、

徹底的に冷静なアート行為、あるいは作品に真摯に取り組んでいることが見てとれるからだ。

それが、彼の作品の人間らしさをある種示し、そこに共感を呼ぶのだろう。

ここで、いよいよビルケナウを見ていただきたい。

氏は、ホロコーストと向き合わなければならないー。

そう言葉を残して、この大きな連作に取り組んだ。

この4枚は、ビルケナウ、アウシュビッツ収容所で撮影された、

収容された人々の焼却の場面という、

かなりショッキングな場面の写真が用いられているが、

観てわかる通り、どんなに眼を凝らしても、その場面はもちろん跡形もなく消し去り、うっすら写真の白黒部分を想起させるが、

私たちの想像の余地を阻んでいる。

そのもとになった写真はあまりに暴力的であり、撮影禁止なので、ここには載せられないが、

あの写真のうえにこのようなペインティングを施したリヒターという作家に、言いようのない感情を掻き立てられるのだ。

その意図とは。。?

彼は、あの写真から何を思ったのかー。

少なくとも、わたしにはひとつの、

目を背けたくなるような事実があった。

彼は意図してか、意図せざるかー。ビルケナウという主題に取り組みながらも、そこに

ピカソのゲルニカのような、そこの人々の叫びを受け止めるのではなく、

むしろ、隠しているのだー。

自分が目を背けていた現実を塗りつぶすかのようにー。

ビルケナウ、アウシュビッツの残忍な写真の上に何層にも絵の具を重ねるー。

それは、

向き合うという人間的な行為と、ビルケナウで起きたことに対する一歩引いた目線とがあわさる。

リヒターは、ビルケナウと確かに向き合った。

けれど、ビルケナウの叫びを懐にいれ、共感するなどということはしなかったのだ。

彼は、ヒットラーを責めただろうか。

恐らく、否。

けれど、ビルケナウと向き合おうと思ったことこそが、リヒターにとっての人間的行為なのだ。

リヒターは、ただありのままに対峙する。

ビルケナウで起きたことを肯定も否定もしない。

そう気付いたとき、

彼の姿勢にはひどく心がざわついてしまった。

そっと作品から目を逸らせばそこにはどこまでも冷めきったグレイの鏡。

鏡という断面に箱のように切り取られ、にうごめく人々

彼らの顔はぼやけてみえない。

自分の顔もー。

ああ、そうかリヒターにとって、人間とは、自然とはこう見えているのだー。

ぼやけて、塗りつぶしていく存在ー。

そのことに、皆さんぞっとはしないだろうか?

私は皆さんに問いたい。

このことを、どう考えるか?

入口付近には、ドイツ国旗の配色作品があった。それは、どこかくすんでいて、しかし透き通っているー。

暗いドイツの歴史を透徹するように、わたしたちをじっと見つめているー。

きっと、リヒター自身もー。

現代アートの巨匠、圧倒的な作品群、そういうキャッチフレーズの影に隠された、

非人間的という大きな闇ー。

貴方は、どのように自然や、人間と向き合うか?

目を逸らしてはならない。

そこには、いつだって問題があるのだー。

展覧会情報↓

https://www.momat.go.jp/am/exhibition/gerhardrichter/

写真・出典

同展覧会展示会場、及び作品リスト

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