私が十和田・奥入瀬の旅で見つけたもの__個展「存在の森」に寄せて_

今回の個展「存在の森」を開催するにあたり、

皆様にお話しておきたいことがある。

それは、2021年8月ー。私の、十和田湖、奥入瀬渓流の10日間の旅のことだ。

ここで感じたことー。

それは、豊潤な、やさしい、太古のゆりかごの話ー。

朝、十和田湖畔。

私は、砂を枕に寝転んでいた。

空にかかる葉の瞬きを眺め、また水光を眺める。

絵を描くでもなく、ただ、その身を預けていた。

鳥は水辺を散歩し、虫たちは悠々と飛び回る。

それでいて、互いになにも侵すことなく、風は優しく、頬を撫でる。

反光は、透き通る。

       《葉光》

葉の一葉、一葉、水面の一泡一泡が、ゆらめき、優しい光をはなち、重なり合って存在しているのだ。

それは、

まるで、母親の胎内に抱かれているような安心感でーー。

そして、思い出すのだ。

奥入瀬の地を踏む前に訪れた、青森の縄文の遺跡ー。

その文化の育まれた場所にも、それは優しい風が吹いていたことをー。

《みなもの詩》

縄文は、有史以来、日本で唯一、一万年もの間続いた時代だ。

ここ青森の地では、

ムラと呼ばれる共同体を形成し、自然の恩恵を余すところなく享受し、

争いもなく、

ひとつの「」のなかで、農耕、狩猟、創造、輸入、あらゆる文化を内包した、豊かで平和な営みが在った。

それは、まるで、今目の前にある十和田の自然の姿そのものではないか。

約三万年前の噴火により、カルデラ湖となり、火砕流によって、岩畳が形成され、奥入瀬の川が生まれ、

そこに限りない植生と、生き物を包括する、穏やかで豊潤なこの森はーー。

青森という地に、太古から営まれ、存在してきた、この二つの文化と自然の姿がら重なるーー。

思い返せば、

初めて、奥入瀬の森を訪れたときは、私が鬱の時で。

あの時も、そうだったーー。

気づけば岸辺に座りこみ、ただ、渓流の音を聞き、その青い響きの中に身を投じていた。

そして、誘われるようにスケッチブックを開き、その風景を描きとめてた。

《青唱》

きっと、この青森の地に、古くから確かに息づく優しさに、私は救われたのだ。

心を病み、絵を描くこともできなかった当時の自分が、

この日を境に、突き動かされるように、六畳ワンルームの隅で絵を描きはじめた。

それが、画家、富田久留里の、始まりだったのだ。

循環、回帰浄化ー。

ここは、そういう不思議なエネルギーを確かにたたえる場所ー。

だから、私は今回の旅で、再びこの地へ向かったのだと思うー。

《存在の森》

たゆたい、いく層にもかさなる悠久の森ー。

水流も、苔も、木々も、あらゆるものが重なり、その森の存在は、決して揺らぐことのない穏やかな太古の蓄積に抱かれている。

激つ静か F50

嵐で木が折れても、川が濁流になっても、この森の深部は、壊れないだろう。

災害という言葉とは無縁のー。びくともしない豊かさ。

堆積した時間と営み、自然のおびただしいほどの折り重なりによって、この森は守られているー。

時間の蓄積、豊かな光を前にして、

とてもじゃないが、描ききれない。

その事実に気付かされた。

静かに揺れ、形を変え、千変万化する煌めきは、

追っても追っても追いつけないのだ。

ここの風景の光は、瞬間の煌めきではなく、一万年以上前からかわらずそこにあった煌めきだからーー。

 

しかし、だからこそ、向き合いたいと思ったのだ。

ひたすらに追い続け、描き続けた10日間だった。

きっと、私は何度でもこの土地に還ってゆくのだろう。

寄せては返す波のように、鳥が羽を休めるようにーー。

「存在の森」____。

確かに、そこに在る、無限の奥地へ、

貴方も誘われてみませんかー。

浮かぶ青木 

*個展詳細

富田久留里 _存在の森

会期:7.26(火)〜8.6 (土)
  火-金 12:00-18:00
  土-日 12:00-17:00
  月曜休廊

会場: 銀座奥野ビル2階 ひのつみ画廊

 
*在廊は土・日曜日を予定しております

縄文と奥入瀬の自然についての関連記事はこちら↓↓

宜しければこちらも併せてご覧頂くと、また一段と、青森の風土への眼差しが深まるかとーー。

歴史と、自然と、ヒトの性質はすべて繋がっているーー。

そういう【深さ】を、今回の個展、

「存在の森」ではたたえてゆきたい。

そう切に想うのだーー。

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