一枚の絵が魂を救うということ。 

苦悩する魂

最近、制作をしていて、思うのは、ひとつの絵を生み出すことの苦悩についてである。

例えば今描いている作品。、

はじめは、このような絵だった。

それが、こうなり、

現在はこうなっている。

まだ途中だが、最初から随分と変わった。

変わるたびに、これで良いではないかと思うのに、一晩たつと、気に入らず、筆をいれる。

また一晩たち、やはり違うとまた取り掛かる。

そんなことを繰り返す毎日である。

先の見えぬ不安。完成イメージに到達できぬ不安。それらが絡み合うとき、

私は芸術を産むことのどうしようもできない深い孤独に直面する。

この苦悩とひとりきりで闘うことの寂しさ。

それは逃れられない苦悩である。

生きることから逃れることができないように、

生きているかぎり、私は芸術に追い立てられ、常に追求の道、苦悩の道を進むことになる。

そこにあるのは、紛れもない哀しみなのだ。

人間の魂が背負う業

そう、人間の生とは、本質的には憂鬱である。

皆さんも、こんなことはないだろうか?

特になにか大きな原因があるわけでもないのに、ふとやるせ無くなり、全てが面倒になることがー。

言いようのない不安や虚しさを誰しもが抱えながら生きているはずだ。

なぜそんなことになるのかー。

それは、人間は、どこまでいってもを捨てられない生き物だからだ。

考えてみてほしい。

本当に自分の人生に納得している人間がこの世の中にどれだけいるだろうかー?

毎日仕事に行き、日々の生活のなかでちょっとした癒しを見つけ、それなりに満足しているー。

そう、満足しているーー

そう思い込んで、日々をやり過ごしている人がほとんどではないのか。

けれど、心の底では。

満足なんて全然していないはずだ。

もっと仕事がうまくいけば。

もっと恋愛がうまくいけば。

もっと。

もっと。

もっと。

そうやって何かを追い求めることを人はやめることができない。

わたしも、絵画を制作していると、そんな「欲」との闘いになる。

これでもいいじゃないか。これでも充分良い作品だーー。

そう言い聞かせて終わらせようとする、

けれど、そのたびに、の奥の奥の部分がチリチリと痛むのだ。

もっと良い作品を、もっと良い表現をー。

皆さんもそうではないだろうか。

もっと良い暮らしがしたい。満たされたい。愛がほしい。

その欲がつきることはないはずだ。

けれど、私たちはその欲を理性で抑えている。

自分は満足している。」 

「自分は幸せだ。

そう、言い聞かせ、自分で自分を納得させる。

それは、至極健全なことだ。

けれど、よく考えてみてほしい。

健全であることは必ずしも是だろうか。

満足しないとだめなのか。幸せになならなくてはだめなのか。

必ずしもそうでなくても良いはずだ。

幸せでなくてもいいではないか。

飢えていてもいいではないか。

「追い求めても」いいではないか。

もがいて、あがいて、そこに到達できないと知りながらもそこに向かっていってもいいではないか。

そのもがきを、苦しみを、わたしは愛しく思う。

少なくとも、私は絵画制作において、人生において、そう思うのだ。

たった一つの救い

もちろん、幸せになりたいのに、なれないということは苦しいことだ。

さらに、その苦しみは誰にもわからない。

そこに、一個の生命の孤独がある。

ひとは結局は「ひとり」。

生まれる時も、死ぬ時も「ひとり」である。

そして、考えてみてほしい。

どんなに大好きな人と一緒にいても、悩みを共有しても、埋まらないものがあるということを。

本当に自分をわかってあげられるのは、友達でも、親でもない。

自分なのだ。

いや、自分さえも自分をわからないこともある。

その憂鬱たるや。

けれど、その孤独の魂が叫びをあげたとき、それが時として絵画となる。

さらに、その絵画は時としてひとりの彷徨える魂を救う。

何故なら、

その絵画は、まぎれもなく一個の人間の孤独な魂ー。

私たちの満たされない哀しみそのものだからだ。

そのような絵画と出逢いを果たしたとき、ある人は涙を流し、そして、こう思うのだ。

あぁ、まさに、これだ。これこそがー。」とー。

《雨響》2021

それは、間違いなく、どこまでいっても孤独である人間にあたえられる唯一の救いなのだ。

1人の人間が生き、格闘した痕跡、あるいは集大成ー。

一その者の思想の、生きた証のすべてであるからー。

その筆触が、色が、形が、その人間の「すべて」。

それは、私たちにとって、唯一の救いとなり得る。

人間存在と格闘し、常に疑問をもちつづけ、考えながら形を編み出した者にしか到達しえない深淵

絵画は、人間の深淵にその牙を、爪を食い込ませている。

だから、決して途絶えることはない。

血を流しつづけ、あるいは注ぎつづけ、魂の深淵をさまいよい、

絶え間なく湧き出る泉のように、生き続けるのだ。

《みなもの詩》(うた)_存在の森※より_ 2021

2022年7月に第2回の個展「存在の森」を開催いたします。本記事掲載の作品を展示予定

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