冬の奈良を訪ねて__古(いにしへ)の旅__

「夜の寺」

地蔵通りに向かう境内を見下ろす石段が好きだ。

左右には杉木立のなかに福徳大神様の苔むした花崗岩の鳥居があり、その奥の杉木立の葉の間から三日月がのぞいている。

左側には慈母観音と地蔵菩薩が心静かに微笑んでいらっしゃる。

慈母観音の衣紋や肩の丸い線、表情のきりっとした口元、鼻のラインが夜の闇と燈のなかでいっそう浮き上がって見える。

背景には紺碧の夜空と生駒の街並みが、そして火星がまたたき、宝珠は暗がりのなかでシルエットを際立たせ、観音堂の屋根が雄々と羽根を広げる。

そのまま上へ続く道を行けば、

私は、気づけば自分がこの山の修験者の1人であるという心地になっていた。、不思議なことに自分の目の前に、同じような修験者の姿を見た気がした。

それが弘法大師様であれば良い、ともー。

両脇の数多の地蔵菩薩や観音菩薩は、厳しい道行きをそっと見守り、穏やかに、けれど厳しい眼差しでさぁ、お行きなさいと誘うようである。

目の前は大師堂である。あぁ、私は導かれてゆく。

そんな心持ちで大使堂で拝した弘法大師像であったからか、なんとも厳かな対面であった。

格子の向こうでゆらめく蝋燭と匂い立つような蓮の華の装飾に囲まれながら、どこまでも静かに座っておられる。

夜気のなかで、この地で、誰がためでなく、ひたすら己の心を鎮め、修行する大師の静かに黙したその御姿、閉じられた瞼に真言を以て己を律することの本当の意味、この宗教の本質的な姿を垣間見る。

厳しい行いではない、そんな概念はとうに超え、そこに透徹したまなざしがあることを認めざるをえない。

黙することのなんと豊かなことか。目を瞑ることでなんと多くのものが見えてくるか。

大師堂は、そんなことを私に語りかけてくれる。

地蔵通りを戻り、石段を下り、境内南側の路地を抜けると、岩谷の滝に続く狭い道に出る。暗闇のなかではあったが、脇には民家も並び、人の気配をなんとなく感じる道で不思議とあまり怖さはない。

ふいに水音が響いてきた。もうすぐである。

滝のそばの社務所は灯がついていて、管理人の方がにこやかにお疲れ様です、と声をかけてくれた。灯油の容器をもって石段を降りていく。「今日は一段とよく冷えますね。」「これからもっと冷えるでしょう」

そんなやりとりをして私は反対に石段の奥に登ってゆく。

暗がりの水音に近づいていけば、その中心には、舞台のように四角形の平らな石の台座があり、

頭上4mほどの高い位置から一直線に一点に降り注いでいる。

迸るその感覚にむくむくとその水に清められたい、という気持ちになる。

えいや、と服もそのまま、(靴は本当は脱ぎたかったのだが)その台座に座り脳天に水を浴びた。不思議と寒さはなく、身を清めた爽快感だけが残った。

けれど私が水に打たれた場所の奥には一段と空気の違う、塩が大量に盛られ、大岩が鎮座し、しめ縄が巻かれ、その奥に迸るたきの音を聴いた。あれが本当の滝業の場所なのであろう。

いつか、あすこで本当の禊ぎの許しを得てみようか。そんなことを考える。

引き返す道に吹き抜ける風もなんとも心地よかった。

これで清らかな身体で新年を迎えられる、と意気揚々と家路へ向かう。帰ると、室内はあたたかいはずなのになんだか寒い気がして急いで服を着替えた。

さぁ、もうすぐ友人が来る。暮れゆく年、奈良の地酒と奈良漬でしっとりと過ごそう。

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