《光悦墓所》スケッチ F4

7年前。大去庵から眺めた鷹ヶ峰の美しさが忘れられず、再び光悦寺を訪ねた。

美しいと思ったが、あのときほど感動はしなかった。やはり、同じ場所を訪れても、そのときの自分の心のありかたによって風景の感じ方は変わる。

以前は気付かなかった場所に出逢ーー。

大去庵をあとにし、冬のあたたかい鈍い光に照らされた光悦が垣やを眺めながら歩いていると、ふと

鷹ヶ峰を臨む光を浴びた場所に建つ立派な墓所を見つける。いっこれが光悦の墓かと思えば、子孫の墓所であった。

では、その偉大な祖が眠る場所は、どこか?まだ見ていないところはないか、と思案して

広い境内のなか、大去庵に向かう途中ら見逃してしまいそうな脇道があったことを思い出す。

そこへ行ってみれば果たして
その奥へのびる暗く細い石畳を進んだ先に、彼の墓はひっそりそりそりと建っていたのである。

一体何故こんな目立たない侘しい場所なのだろう。

けれど不思議とそこは風流な気配が漂っている。

墓石は、簡素で小さい縦長の造り。けれどその表面は雨垂れの跡や窪みの苔むす部分が濃い影となり、彼のつくる茶碗のような重厚な風合いが見られた。

葉擦れの音。ゆらめく枝葉の隙間から漏れ出る光。それらが辺りの暗く苔むした地面や、石畳や墓石にまだらに散らばるさま。
互い違いになり、こちらを導くよつに配置された敷石のデザイン。

よくよく見れば、そこは光悦の美意識が詰まった場所であった。

光悦は、この鷹ヶ峰一帯の土地を家康から拝受した。

家康が光悦に鷹ヶ峰の土地を与えたことは政治的思惑によるものか、真相は知る由もなし。

けれど、家康は光悦に真の審美眼とクリエイティビティがあることを見抜き、家康の見抜いた通り、光悦はその胆力によって追い剥ぎが出るという広大な北の荒れ地を見事、風雅の里にした_

家康が光悦を見出し、光悦もそれに応じ、琳派の礎を築いた。

これは揺るぎなき事実である。

彼らは、首を横に振るかもしれないが、私はこの2人は真を見極める精神において通じあっていたのではないかと思う。

家康の墓所もまた、きらびやかな日光東照宮の最奥、杉木立に囲まれ、侘しさの中にひっそりと建つ。

一流の文化人であった光悦も、大業を成し遂げた天下人の家康も。

最期は同じように、ただ静かに眠りたかったのだろうか。
栄華の光のなかでははなく、陰のさやけきのなかで__

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